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温泉魔境 ― 神隠しの湯編 ―

T字路になったので、上り坂のほうに曲がってみました。 坂の角の真っ暗で古めかしい、引っ越しした後の本屋のような ガラス張りのウィンドウを覗いてみます。 からっぽの赤い布張りの床のうえから ぎら、と金色の目がこちらを見上げて身を翻す。

ああ、もう。
どうしてそんな所に居るんだ。 よってたかって客を脅かして。 真っ暗な店の奥から、にゃお、と答えが返ります。

黒猫の居た硝子の隣は削りかけの木を工具にさしたままで、 店鋪の方はやはり並んだこけしがこちらを見ています。 じいじいと青紫の誘蛾灯が唸っています。 坂のほうが山に近いから虫が多いのでしょう。

こちらを見ているこけしは、 ──ここのこけしは、良い。 こけしなんてごくごく単純な造形でみんな同じ様に見えますが、 ここに至るまでもう何軒ものこけし屋さんを覗いてきましたから、 それぞれの削り、絵付けの個性が判る様になりました。

造作が大き目で子供っぽいもの、ぎごちないもの、可憐なもの。 今私を見ているこけし達は三日月の眉、細い目、胴の花、 いずれも筆運びがすっきりとのびやかで瑞々しい。

これだったら。
あの、すみません。 首を伸ばして店の裏側を伺いますが、 しんとして人の気配はありません。 じいじいと青紫の誘蛾灯だけが唸っています。

それまでずっと人影のなかった街の中で、 坂の途中に急にもしゃもしゃと大人や子供が湧いていました。 赤っぽい電球に照らされた立派な構えの湯屋の前で、 人影がゆらゆらと蟠っています。

旧い温泉の、由緒のある地元の共同浴場なのでしょう。
中を見たいな。 でももうさっきお湯に入っちゃったし、手拭いもない。 ぼそぼそと周囲から聞こえる話声は何と言っているのやら いくら耳をそばだてても聞き取れません。

坂を昇って見下ろすと、大きなお湯屋の黒々とした 木組みの間からわあんと反響する人声や 湯桶のこおんと通る音やざあざあと溢れる湯の音や 赤い電燈の明りが溢れだし、 敷地のあちこちからもうもうと立ち上る湯気が 燃えさかる炎の様に赤く染まって なんだか楽しい地獄を覗いているようです。

後になって後悔しました。 やっぱりあの古めかしいお湯屋に入ってみればよかった。 手拭いは番台で買えばいいんだし、 お湯にあたるならあんまり浸からなければいい。 そうしたら通りで生きている人といえば 白衣の薬屋さんしか見かけなかったのに、 濃密になにものかの気配に満ちていた 涼しい風の吹き抜ける不思議な温泉街で、 もっともっとこの世ならぬげな妙なモノ共を 感じられたかもしれない。

それとも。 一度踏み込んでしまったら もうもとの世界には戻れなくなってしまっていたかな。(ナルシア;011110)

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