「竜宮の呼び声」 縁側篇   

今は彼方の国の卿の御加護でしょうか。次々と襲い来る嵐の中、
いつ果てるとも知れなかった長大なリレー小説も無事大団円を迎える運びとなりました。
残った謎もまとめて解決、大勢の皆様の御協力・御声援、本当に有難うございました!


ルルイエ


透き通る水。
透き通る水。
膨大な量の透き通る水の底は暗い。
頭上遥かに輝く陽光など、
透き通る筈の水に遮られ、
こんな深海の果てまでは届かない。

否──彼方に小さく白く滲むあれは。
あれが、海面なのだろうか。
二千尋の深みから私は光を目指して
あらん限りの力を振り絞って上昇する。

けれど──光は遠い。
いくらもがいてもあがいても近くはならない。
苦しくて呼吸が出来なくて四肢が痺れて
──これ以上はもう身体が進まない。
この暗黒の海底から光射す海面に浮かび出るなど、
この身にはとうてい適わぬ分不相応な望みだったのだ。
私は抗う事をあきらめ再び暗黒の深淵に──沈み込んで行く。


がつん。
肩に思いっきり何かがぶつかり、私は暗闇でもんどりうった。
「関口!おい、道はこっちでいいのか?」
 聞き慣れた甲高い大声が、壁に反響して割れる。
「道」
 そうだ。
ここは地下道だ。
私は、巨大な地下防空壕と地上を繋ぐ、灯一つ無い地下通路の中を走っていたのだ。

巫女が身を翻して暗い通路の一つに消えると同時に、
津波が雪崩れ込む様に周囲の物が一斉に揺らぎ、鳴り始めた。
警官隊が突入したのだ。
榎木津は血塗れでもがく石地の口中に、首に巻いていた白い布を固く丸めて押し込み、
壇下に駆け寄った警官に押し付けた。
そのまま跳ね上がって巫女の向かった通路へ駆け出す。
僅か数秒の間の出来事だ。何も考えられないまま私も低い階段に回って壇を降りる。
総崩れになって逃げ出そうとした教団員達は次々と押し寄せる警官達に取り囲まれていく。
そこかしこで乱闘が勃発している。
「中禅寺さん!」
 動かなくなった戦車の陰から姿を現した青木が、壇を降りかけた京極堂を呼び止める。
戦車騒動の最中に京極堂の指示を受け、警官隊を物陰に潜ませて機会を伺っていたのだ。
主だった地上への出口にも、警察官を配置させてあると言う。
けれど、おそらく彼等には見つけられないだろう。
彼女が向かった通路の先は。
私は沸き返る地下壕を後にして、転がるように彼女の後を追った。


 道は。
「こ、こっちだと思う。昨日僕は、」
 走り続けて、息があがっている。
「ここを連れてこられたんだ」
 昨日。あれは本当に昨日の事だったのだろうか。
本当はもうずっと前の事なのではないか。
今は──いつなのだろう。
「大丈夫だろうな?途中にもっとでけぇ道があったみてぇだぜ」
 排水路や作業用の測道なども、幾つもあった。
私達の後にも何人かが続いた筈だが、他所の道に迷い込んでしまったのかもしれない。
音の響く狭い通路には、遠い谺がするだけで私達以外の人の気配は無い。
しかし。
「こっち、運河の横に出入り口があるんだよ。その先は海だと思う」
 連れてこられた時、潮の香りがした──ように思った。
「海、だな」
互いの顔すら見えない闇の中、ぽつんと彼方に小さく白く滲む光を目指して、
刑事の大柄な体躯は納得したように再び駆け出した。


 轟々と、凄まじい音が通路に反響する。
開け放たれたままの四角い出入り口からだらだらと水が流れ込んで来る。
足を滑らせながら緩い坂を上り、運河の壁面に開けられた口から見ると、
薄青い光に沈んだ外界は荒れ狂う風と水に鳴動していた。
「来やがった」
 険しい表情で空を睨んで、木場が舌を鳴らす。
「仕方がねえな──行くぞ関口、ふっ飛ばされンなよ」
 勢いを付けて表の通路に飛び出したのは良いが、言われるそばから、
叩き付ける雨と風に身体を持って行かれそうになる。
突風の塊をやり過ごし、風の弱まった瞬間を狙って走る。
運河の水量が恐ろしいばかりに増して、足下ぎりぎりを濁った水が渦巻いている。
水路の先には、用心の為に陸に引き上げられたボートががたがたと揺らいでいる。
そしてその向こうから──得体の知れぬ巨大な者の呼び声が、
身体を奥底から震わせる恐ろしい唸りが、押し寄せてくる。

轟々と。
轟々と。

こんな事が以前にもあったな、と思う。
轟々と天地を圧する敵機の襲来の中、
木場と二人で南方の生温い雨に滑りながら死にものぐるいで駈けて、
──そんな昔の事は、今はどうだっていいのに。


海が見えた。

海は。
海は、立ち上がっていた。
素っ気ない金属の板のような見慣れた平坦な東京湾は影も形も無くなっていた。
海そのものが奇怪に膨らみ水面の位置が遥かに高まっている。
大きく捲れ上がった波浪が私達全員を飲み込もうとするかのように
白く泡立ちながら猛々しくこちらに向かって押し寄せて来る。
高潮だ。
あの禍々しい半分より膨らんだ欠け行く月を見たのはいつだったか。
あれから十日も経っているのならばそろそろ新月だ。
月の引力が、低い気圧が、穏やかな水をあり得ない高さにまで楽々と持ち上げる。
東京の海は今、これまでに見せた事もない獰猛な姿となって湾岸を襲っているのだ。
小さな港に繋留された個人用の釣り舟やクルーザーがうねりに揉まれている。
その外側の、波に噛み砕かれるコンクリートの防波堤の先端に、

彼女は立っていた。
両腕を一杯に広げて。
遥か沖合いから彼女に向かって来る者を迎えるように。
青い明け方の光の底で伸ばした指先まで青く染まって。
祭祀堂は要らない。その身のうちに築かれているが故。
神像も最早要らない。その姿こそが最も尊い神の貌故。
白く砕ける雨の飛沫が後光のようにその輪郭を縁取る。
ずぶ濡れの浅黒い膚が鋼の彫像の如く青く輝く。
青く。青く青く。

ここは青の島だ。
目と鼻の先の島でありながら異界の橋頭堡と認識されるのが青の島なのだと言う。
死者や先祖が棲まう常世により近い場所、常世に棲まう存在が此の世に現われる場所。
波に攫われるように安置された遺体は、海の彼方に有る世界へ旅立つ。
此の世での居場所を悉く奪われ、終には人に非ざる存在へ成る他なかった巫女は、
今常世へと旅立とうとしている。
そして、迎えに来るものは。

最早鳴っているのは海ばかりではない。
天も、地も、身悶えしてあらん限りの声を放っている。
海面は、巻き上がる波と雨の雫が白い飛沫となった霧に覆われている。
そして──その白い幕の奥に、私はあり得ざるものを見た。
天空に突き上げるように巨大な何物かが海面から朦朧と立ち上がる。
暗い緑色の塔のような、巨石を積み上げた古びた城壁のような、
しかしそれは直立せず異様に捻れた形をして嵐の海にそそり立っている。
それほど巨大なものが見ている間にもその輪郭を変え、一定しないのだ。
見つめるうちに、水平線とその建造物との境界すら曖昧になってゆく。

ルルイエ。

これこそが、溺死した数学者が求めた答え、孤独な巫女が慕った魂の故郷。
病み崩れた鋭敏過ぎる神経だけがその圧力に震え、
狂気と幻覚のみがその輪郭に触れる事を許される、
太古の神々が眠る海底の石の都。
旧き神の愛娘、邪な神の花嫁、
不可視の巫女のしるしを幼き心に刻み込まれた乙女、
強靭で繊細で美しい、黒い瞳の神の僕を迎える為に、
非ユークリッド式の有り得ざる角度を以って、
今、海底の神殿が東京湾に聳え立つ。

──懐かしい。

怖気を震うような非現実的な物体を目の当たりにしながら私は、
そう──感じた。
そして。
光届かぬ深い水底の城、るりゑで彼女を待ち続けた神が何者だったのか、
漸く気付いたのだ。

嵐の後の浜では深海に棲む珍奇な生物達が見つかると聞く。
水の深みまでかき乱す激しい嵐の日は、
海の深い深い場所で眠る者達が海面を訪れる時なのだ。

海面に白く乱れた泡を被った暗い色の異形がいくつもいくつも盛り上がる。
ああ。みんな来た。
やっと、みんなが迎えに来てくれたのだ。
深く暗い海の底から。
王女はひとりぼっちでずっとずっと待っていた。
喜びに満ちあふれた彼女の艶やかな背中に、今、
砕けた白い波飛沫が、祝福の花吹雪のように降り注ぐ。

みんな、きてくれたのですね。
よかったね。よかったね。

そして。
壮麗な泡に飾られた一際巨大な暗い塊が
慈しむ様に王女の前に高々と立ち、
彼女を抱き締めて──粉々に崩れ落ち、
白い霧となって砕け散る。


防波堤の上から彼女の姿は消えていた。


直後、後を追うように防波堤の上から長い影が飛んだ。
不意に、雨が顔を叩く感覚が戻る。
「榎さぁん!」
 金縛りにあったような身体を動かす事を思い出し、私は防波堤へ走った。
漸く私が堤防の下まで駆け付けると、全身に水を被ってまさに仁王の様な形相の木場が、
満身に力を込めロープを両足で踏み締めていた。
「関口!これをどっかに結わえろ!」
 渡されたのは、恐ろしい事にロープの端だ。
無謀極まる探偵は、命綱の端を友人に投げ付けて、荒れ狂う嵐の海に身一つで飛び込んだのだ。
呆然とする間にも、木場の足下のナイロンロープの束は、しゅる、しゅる、と激しい勢いで解けて
コンクリートの壁を越えて次々と海に引き込まれてゆく。
「早くしろ!あの化け物がこっちへ来たら仕舞いだぞ」
化け物。見えているのか木場にも。
あの海上にそそり立ち、じわじわと蠢くあの悪夢の如き神殿が。
海面に聳える巨大な質量は確かにこちらに迫って来ているようだ。
急がなければ。手が。手が滑ってロープが掴めない。
雨だか波だか分からない水を頭から被り、防波堤の突端の表示灯下に打ち込まれた足場に
滑る手でロープを滅茶苦茶に巻き付けながら、私は脅えていた。
この綱が尽きても、彼女に届かなかったら。
届いたとしても、彼女が現世を拒んだとしたら。
榎木津といえどもこの荒れ狂う波に力及ばないかもしれない。
海神は、愛しい娘を悲しい目にばかり会わせた地上に、彼女を返す事を望まないだろう。

祈っても無駄なのだ。
慈悲など示す神ではない。
それでも祈らずにはいられない。
耳を弄する咆哮と、雨とも波とも涙ともつかぬ水に沈み、
私は体を丸めてロープを抱き締め、無慈悲な何者かに必死に訴え続けていた。

──「ルルイエ」 作・ナルシア


京極堂座敷・今川



「それは──大変だったのです」
 座卓の向こうにちんまりと正座して、一部始終を聞いていた骨董屋は大きく息を吐いた。
縁側の向こうの空は晴れ晴れと青く、筆で掃いた様な白い雲が淡く流れている。
「大変だったんだよ」
 私は両手を広げてしげしげと見る。
「おかげでこんなに手が擦り剥けちゃったよ。二日経つのにまだひりひりする」
「どれ」
 座卓の下からいきなり長い腕が伸びて来たので、慌てて反り返って避ける。
卓が傾き、骨董屋──今川が湯飲みを両手で押さえる。
「水が零れる。榎さん、あんた猫ですか。座卓の下で暴れないでくれないかな」
 座敷の主人の不機嫌な声が響き渡った。
ずりずりずり、と長い身体が畳の上に這い出してくる。
嵐の海から奇跡の生還を果たした男は、体を捻って卓上の湯飲みを無造作に掴むと一息に飲んだ。
「不味い!なんだこれ、マズいぞ」
 不自然な姿勢のまま高らかに言い切る。
「そ、そうですか?」
「不味いッ!もう一杯!」
 なんだいそれは、と座敷の主──京極堂が冷たく言う。
「そうかなあ」
 私も一口湯飲みに口をつける。
「ああ、これ温くなっちゃったから。冷やすと結構旨いんだよ、
 普通の水よりどっしりしてる感じで、暑いときに飲むと善い」
 今川が不思議そうに湯飲みを一口舐めて首を捻る。
「僕には味の違いは良くわからないのです。
 事前に伺っていなければ、普通の水だと思うのです」
 でも貴重な深海の水だそうなので有り難く頂くのです、と押し頂いて飲む。
うわあ水を零すな、締まりのない口だなあ、などと榎木津がはしゃぐ。
騒々しい客はほったらかしで、京極堂は普段と同じく本から目を上げない。
あの時──この男は、嵐に逆らう黒い鳥のようだった。


「──捉まえた。今だ、旦那、関口君、引け!」
 世界を覆う波と風の轟音、海の唸り、全てを貫いて聞き慣れた善く通る声が頭上から降った。
目から水を振払って見上げると、防波堤の上に翼を風にはためかせたずぶ濡れの黒い鳥が
──京極堂が、コンクリートに打ち込まれた金属枠を止まり木のように握り締めて防波堤から身を乗り出し、
波の砕ける沖合いに目を凝らしていた。
重量のある機械が唸りを上げて始動する様に、木場がロープを力の限り手繰り戻す。


「でも本当に、みなさん御無事でなによりだったのです。
 高波と高潮どころか、沖には竜巻きまで起きていたと伺ったのです、
恐ろしい事だったのです」
 そうなのだ。
私達が白い飛沫越しに見た、高々と海面にそそり立つ石の塔、
変幻する神殿ルルイエの正体は海水を巻き上げる黒々とした竜巻きだった。
暴風の吹き荒れる台風が竜巻きを伴うのは珍しい事ではないという。
漸く地下迷路から抜け出た鳥口や、地上を回って警官達を引き連れた青木が駆け付けてくれなければ、
私も木場も、榎木津を繋いだロープもろとも怒り狂う海に引きずり込まれてしまっていただろう。

 風雨はいつしか収まっていた。
中心を抜けたな、と濡れた前髪を拭いながら京極堂が空を仰ぐ。
大勢の手でロープが岸壁まで引き戻された時、
重苦しい雲の垂れ込める空の片隅が裂け、雫を散らしながら
腕に王女を抱き抱えて海から上がる探偵を朝の光が照らした。


「アキコさんはどうなさっているのですか」
「まだ病院に居るけど、記憶の混乱は大分良くなったそうだよ」
 海から地上に生還した直後、王女は幼い少女に戻った様な反応をした。
一時的なショックが去るにつれ次第にそれまでの記憶も蘇って来たのだが、
帰って来たのはアキコで──呼び覚まされた巫女シルスの記憶は海の底深く沈んでしまったようだった。

「事情聴取もぼつぼつ始められているらしいけど、とりあえず『るりゑ教団』の起こした事件に関しての罪にはあまり問われないらしい」
 大体、るりゑ教団の犯罪行為そのものが立証しにくい物なので、黒幕の石地の容疑すらはっきりしないのだ、と昨日も青木刑事が厄介そうに話していた。お陰で木場などは猛烈に不機嫌らしい。
地下壕の戦車騒動の真っ最中、京極堂の指示を受けた青木が地上の応援部隊に連絡し主な地上への出入り口と築地の屋敷の見張りを配置しておいたため、主だった教団関係者の身柄は押さえられている。現在は主に詐欺罪の捜査のため押収したあれこれから証拠を掘り出している最中だという。
それでも──無数の排水溝や通路からこっそりと姿を消した黒子は居る。
「詐欺、ですか」
 殺人で立件するのは無理だろう。被害者当人が言うのもなんだが逮捕監禁も成立しにくい。
どちらかと言えば私などは──歓待されていたと言える。
 乙姫様の御馳走に鯛や平目の舞踊り。
 また珍しく面白く月日の立つのも──夢のうち。
「今回の件が明るみに出たので、竜宮水で似た様な目に遭った被害者達の幾人かが表立って損害賠償に訴える、と言う話もあるらしいけど」
 最後まで壇の下に残って一部始終を見ていた信者の中にも竜宮真水に依存させられていた会員が居たのだ。あの場で京極堂に憑き物を落とされたのは私だけではなかった。
──あの猫目洞を訪れた青年も、財産を収奪されたと教団を訴えるのだろうか。
「石地が竜宮真水に混ぜて信者に飲ませていた薬物が押収されさえすれば、話は簡単なのだがねえ」
 京極堂も厄介そうに指で顎を摩る。
「今の所、輸入禁止動物の密輸の容疑のほうが明白なので石地は主にそっちで取り調べを受ける事になりそうだ。もしかしたら薬物もそちら方面から出るかもしれない」
 いろいろ手広いご商売をされていたのですねえ、と古物商が丁寧な感心の仕方をする。
「あの方も命に別状が無くて良かったのです」
 意識の底に刻まれていたキーワードによって後催眠を発動させられた偽司祭は、榎木津の咄嗟の血止め処置の直後に病院に搬送され手当てを受けた。
それでもあの優し気な声で滑らかに刑事に事情を語る事は難しいだろう。
信仰を騙った男への邪神の報復は苛烈であった。
「石地と言えば」
 私は尋ねたかった事を思い出し、畳に方肘を突いて横になっている榎木津に問うてみる。
「榎さんは海軍時代、石地少佐とどういう、その──因縁があったのだい」
 うー、と面倒くさそうに唸って元中尉はぺたりと畳に寝そべる。
「忘れた。あんな奴、もういい」
 今川に目をやると、首を横に振っている。かつての部下も詳細は知らないらしい。
人にはそれぞれ思い出したくない過去がある──と言う事なのだろう。

「まあ何にしろ、彼女の方は大丈夫だよ。榎木津幹麿氏が後見人になるから生活の心配はないし、事件の後始末は増岡さんが面倒見てくれるから」
 気を取り直した様に京極堂が言う。長い顔の早口の弁護士には私も伊豆の事件に関して大分世話になったのだが、またもや尋常ではない事件を押し付けられてしまって気の毒ではある。それでもまあ、憤然としながらも細々と働いてくれるだろう。傲慢な態度の割りに、親身なのだ。様々な心理的な問題に関しても、例によって京極堂が知り合いの専門家に依頼したようだ。
「ゆっくり心身を休めて、学校にでも通うと良い」
 京極堂は、殊更心配してはいない様子だ。
「そうだ。あの厨子甕だけれどね、古株の教団員の中に当時の事を知っている人がいた」
 不意に、すっかり忘れていた様な話題を持ち出す。地底であの厨子は神の居場所ではないなどと不審がっていたが、気になっていたのだろう。その後調べたのか。
「アキコさんが──あの男に渡されたインチキ神像を抱いて彷徨っている頃、世話をしてくれた老夫婦があったそうだ。彼女が神像に対して家族に仕えるように接しているのを見て、大切な御先祖様かなにかだと思ったのだろうね、八重山の島出身だったその御老人が立派な厨子甕を拵えてくれたのだそうだよ」
 最も血縁の近い女性──娘が骨を浄め、父母の骨を納める厨子甕を。
「そういえば、あの厨子は位牌を納める仏壇みたいにも見えたね」
 もっと慎重に扱うべきだったよ、と呟いて京極堂は煙草を取る。
気にしていないように見えて、この男はやはり悔いている。

 高波に攫われる直前の王女の姿は私にはまるで──
迷子が迎えの親の姿を見つけた時の様に歓喜に輝いて見えた。
昔話の乙姫は何故、壮麗な竜宮城に一人で住っていたのだろう。
西洋のお伽噺ならば姫君は城に必ず父親である王様と共に暮らしている。
龍王は何処かに居たのだ。浦島太郎がそれを父親だと気付かなかっただけだ。
おそらく、人の貌をしていなかったから。
凶暴な波が高々と襲い来る海岸に立ち私はぼんやりと考えていた。
深い海の底の神殿に棲む、彼女が乞い願った神とは──失った家族ではなかったのか。

「壱ノ瀬博士のフィールドワークの報告を聞く限りでは、パラオでのルリヱ信仰は他の宗教の現存の神々が登場する遥か以前の、旧い神々を祭るものだ。人類以前の神のための宗教だから、本来先祖崇拝の要素は殆ど無い。燐鉱事件も、人骨が死者としてというよりクトゥルの神の信者として正当に扱われなかったという点が、生きている信者達の怒りを買ったのだからね」
 けれど。幼なかったアキコが本来の意味でクトゥルの神そのものを理解していたかどうか。
アキコが巫女シルスの後継者として海神の勧請を受けたのは、愛情に溢れた両親や大勢の島民に囲まれ、
優しい研究員と過ごした至福の時期だった。
私達から見れば無気味で怪し気な神への信仰も、彼女に取っては幸福な郷里の日々の象徴なのだろう。
やがて日本に渡ったアキコは三ツ矢家の人々に大切にされ、厳格な軍国教育を受けて成長する。
島で身に付けた海神に関する記憶は意識の奥底に埋もれて行く。

しかし。戦争が、彼女から全てを奪った。
空っぽになったアキコの心に、歪んだ形で遠い日の島での信仰の記憶を呼び覚まし、
巫女シルスを水面下に呼び戻したのは──あの男だ。
けれど、悪魔との邂逅の後には救い神との出会いがある。
偽りの神の像を抱いて彷徨う危うい娘は親切な老夫婦に拾われた。
彼等は、異国の海神の眠る海底の神殿の話を自分達の馴染んだ信仰と重ね合わせて理解しようとし、
天涯孤独の娘を慰めるために彼等の神の世界を物語ったのだろう。

遥かな波の彼方、或は深い海の底にあるとされる常世の神の国、
南西の島々に限り無い豊穣と共に災厄をも齎す異界、
浄められた死者の魂が還る場所、
根の国──ニライカナイ。

「沖縄を含め、南西諸島の多くの地方では亡くなった人はグソー──『後生』という死後の世界で暮らし、
 やがて浄められた魂は海の果ての根の国に還ると言うそうだ」

 アキコの求める神は完成した。

八重山の厨子甕に納められたまやかしの神像を祀るクトゥルの巫女。
東京の『るりゑ教団』の教義は、郷里のルリヱ信仰をベースに、邪悪な男に信じ込まされた偽りの神風、
老夫婦に教わったニライカナイの伝説の共通項を重ね合わせた、パラオ諸島、南西諸島、北九州を結ぶ
アキコのオリジナル宗教と言える。
無数にある情報の中から条件に合う事柄だけを『証拠』として選べば、大概の話は辻褄を合わせる事が出来る。
私を含め、人は真実ではなく信じたいものを信じるのだ。
「本人は、それまで他の人には見えなかった真理を見い出した、と信じたのだろうけどね」
 そういった意味では、彼女は本当に教祖だったのだ。

寄る辺無く流されてきた姫君を助け慈しむ爺様婆様。まるで昔話の瓜子姫だ。
そして──天の邪鬼が現れる。
「それで、その親切な御夫婦は」
 詳しい事は分からない、と京極堂は薄い煙草の煙を吐く。
何らかの理由で一緒に居られなくなった後、信者を集めるアキコに石地が出会ったのか、
それともアキコに利用価値を見い出した石地が彼等の元から連れ去ったのか。
「ニライカナイへ帰ったのかな」
 感傷的な言葉を揶揄われるかと思ったが、座敷の主は静かに応じた。
「八重山の島々では毎年、ニライカナイからアンガマと呼ばれる老爺と老婆の姿をした神が訪れる旧盆の祭りがある」
 人は真実ではなく信じたいものを信じる──のだ。
縁側の向こうに見える澄み渡った空は、遠い遠い海のようだ。

 前後の事情は不明だが、老夫婦と別れたアキコはさぞ心細かく感じた事だろう。
その意識の底から再び巫女シルスが浮かびあがる。
幼少の頃に郷里を離れたアキコは、クトゥルの神について正確に学ぶ時間はなかった。しかし。
代々のクトゥルの巫女に伝えられた忠誠心と特殊な技術は、確りと次の巫女の内に引き継がれていたのだ。
石地が海神への信仰を「誓った」のはその時の彼女であった。
この父の親友を名乗る物腰の柔らかい男は、天涯孤独の王女にとってただ一人の親族のような存在となってゆく。
彼の尽力で、強大で恵み深い神を祭る教団も出来ていった。
優しい物言いの裏の利己的な思惑は、彼女には見えない。
アキコは小さい頃に聞いた伝説の巫女の名を教祖の名に選び、るりゑ教団という大きな家族を得た。
もう巫女シルスの助けは要らない筈だった。

その──彼女にとってかけがえのない家族を、私達は不用意に解体してしまった。
そして。再び地上の家族を全て失った瞬間、深海に眠る真の家族に出会うため、巫女シルスは目覚めたのだ。

 化けの皮を剥がされた後、弐ノ宮博士の事をあれほど罵倒した石地は、
冷笑的ではあったが信仰を捨てないアキコを芯から蔑むような言い方はしなかった。
石地はあれで本当にアキコの事を大切に思っていたのかもしれない。
あんな男の考える事など、私に分かる筈などない──のだけれど。
「そ、そうだ、ご先祖様と言えば、」
 なんだか遣る瀬なくなって、私はぎごちなく話題を変える。
「勿体なかったなあ。あの王家の真珠、波に飲まれたときに無くしちゃったんだって」
「え、本当ですか。それは惜しかったのです」
 あの真珠は王族の徴という意味以上に、王女にとって家族の片身だったのだ。
「そういえば、カヤンベサウ家の方の真珠の名は何と言ったのですか?
 榎木津家に贈られた対の真珠が『乙姫の涙』ですから──『太郎の涙』?」
 それはあんまりだろう。
安直なのです、言わなければよかったのです、と美術品を扱うのが商売の男はしきりに恥じ入っている。

「それでその──憑き物は」
 落ちたよ、と京極堂が本から目を上げずに言う。
「僕が落としたのではないけれどね」
 今川が小首を傾げて私を見る。
私は畳の上に視線を転じる。
長々と寝転がった不作法な男は私達と目が合うと、意外に機嫌良く言った。
「お医者の許可が出たら、一緒にタマちゃんに会いに行くんだ」
 榎さんも行くのか、と店が床上浸水した様な渋い顔で京極堂が呟く。
「タマちゃん?」
「あ、ほら、この水をくれた弐ノ宮先生。ニノミヤタマキ博士」
 アキコさんはこちらにちゃんとお友達もお兄さんもおありなのですね、と今川が安心した様に頷く。
まあ、榎木津元子爵が父親代わりになるのならば、この変人探偵も兄代わりと言えば言えなくもない。
迷惑な兄が出来たものだ。
僕は本当に、小さい頃のアキちゃんと一緒に遊んだんだぞ、と榎木津が不服そうに言う。
「可愛かったなあ、こんなちっちゃくて」
 榎木津が適当に畳から手を上げて見せる。適当過ぎて、それではせいぜい犬の子だ。
縁側から涼しい風が吹いて、榎木津は手を上げたついでに伸びをする。

「アキコさんの憑き物は落ちたけれど──」
 私は改めて卓に向き直る。
「今川君の憑き物はどうなるんだい京極堂」
「僕の、ですか?」
 思いがけない指名に、骨董屋はきょときょとと目を動かした。

──「京極堂座敷・今川」 作・ナルシア

戦場の神殿・解



 それはソロモン諸島の辺りだったか、それともフィリピンの海峡だったか──
正確な場所は今川にもどうしても思い出せないのだと言う。
敵魚雷艇と交戦した後、今川達の載った駆逐艦は海面に漂流する兵士を捜索していた。
そして。

──そこらの海面全体が、もわっと持ち上がったのです
──まるで巨大な動物の臓物で作られた神殿みたいなものだったのです
 それが、夜光虫か海蛍の燐光を放って、瘴気に包まれながら赤い月光を背に浴びてぐにゃぐにゃと──
 こう、手で触るとそのままずぶずぶ崩れそうな──

 結局、元精神分析医は異様な記憶を語る今川に、器質的な疾患ではないようだから京極堂に相談するようにと薦めたのだ。
「いや、あれは、やはり僕は只──混乱していただけなのです、」
 自身の厭な記憶を刺激する無気味な神像が、紛う事無き堂々たる造り物であった事を暴いたのは今川当人である。
見かけより合理的な頭脳を持つ骨董屋は、今更現実であったかどうかも不確かな現象を取り上げる事は気乗りがしないのだろう。

──あれは生きているけれど死んでいるのです
──分りません。ただ、声が嗤っていたような気がするのです

そうは言っても正体が有耶無耶の儘では──気持が悪いではないか。
「本当に気持ち悪いなあ」
 それまで機嫌良く転がっていた榎木津が、眉を顰めて言う。
「そんなモノ見てるくせに、よく平気でイカやらタコやら食えるなあマチコ。
 僕はあの後しばらく焼きイカが食べられなくて困ったぞ」
「イカ?」
「やっぱり烏賊かい、榎さん」
 座敷の主が、手元の本から顔を上げる。
「イカだよ、お化けみたいなでっかいイカがうようよ、それが食い散らされてぐちゃぐちゃになってたんだ。ああ厭だ」
 京極堂は、やはりそうか、と呟く。
「今川君。君が見た海上の柔らかい神殿のようなモノは、やはり生きていて死んでいたようだよ」
 古本屋は手を伸ばして床の間に積んであった分厚い本を引き寄せ、卓に載せた。
こんな所で見かけるのは珍しい、児童向けの冒険小説のようだ。
厚い表紙には細密なセピア色のペン画で、丸い硝子窓いっぱいにうねうねと巨大な触手を絡ませた奇怪な生物が蟠っている。
ぽかんとしている私達を見て、本屋は少しがっかりしたように言う。
「なんだ、君達は子供の頃にヴェルヌの『海底二万里』を読まなかったのか?」
「読んだよ。ネモ船長が乗る謎の潜水艦ノーチラス号だろう?
 あれはでも、確か海底で大蛸に襲われるんじゃなかったっけ?この絵もタコだろう?」
 欧米人はタコとイカの区別があんまりついていないんだよ、と京極堂は良い加減な事を言う。
「Kopffusserかい。あれは独逸語だろう。ヴェルヌは仏蘭西人だよ」
「うるさいなあ。じゃあ、君は蠢いている足だけ見てタコかイカか見分けられるというのかい」
「そんなの、一部だけじゃ区別はつかないよ。ノーチラスだってオウムガイの事じゃないか。あれだって殻を見ただけではとても頭足類だとは思えない」
「えっ、鸚鵡貝は巻貝ではないのですか、貝だと信じていたのです」
 あの化石は美しいので店にも置いてあるのです、と骨董屋が驚く。
なんだそのぐるぐる巻き、今度僕にも見せろ、と榎木津が興味を示す。
「イカの事はもういいのかい」
 京極堂が冷ややかに言う。
それで、このお話のような巨大な頭足類が実在するのですか、と今川がおずおずと問う。
居ますよ、と京極堂は事もなげに答える。
「深海に棲むダイオウイカなどは大きい物で18メートルにもなると言う話だ」
「じ、じゅうはちメートル?」
 約十間。畳を十枚縦にずらずら並べたくらいはある。
「船に巻き付いて海に引きずり込むという、北欧の海の怪物クラーケンなどはこのダイオウイカがモデルだろうと言われている。クジラと巨大イカの悪夢のような恐ろしい闘いというのも有名な伝説だが、こちらはどうも」
「嘘なのですか?」
「いや、実際にあるらしい」
 実際に?
「マッコウクジラは主に深海に棲む巨大なイカを好んで補食する。やはり大きいもので18メートルと言われるマッコウクジラに対して、軟体動物とはいえイカもおめおめと喰われる訳にはいかない、長い腕を鯨の胴体に巻き付けて抵抗くらいはするだろう。巨大と言えどもイカの力では鯨を羽交い締めにして絞め殺すところまではいかないだろうが、マッコウクジラにはイカの吸盤の痕が残っている個体がよく見られるそうだから、あながち大嘘と言うものでもないらしい。イカの吸盤には、タコと異なって棘の様な鋭い歯が生えているからね」
「はい、イカは伊佐間君によく貰うのですが、確かに吸盤の棘を取らないと食べるとき口に障るのです」
 お前はイカは食べるな、と榎木津が無体な要求をする。
「ダイオウイカは通常1000メートルから3000メートルの深海に棲息していて、マッコウクジラは地上で──海中で、と言うべきか、唯一その深みまで潜行可能な哺乳類だ。普通は人の眼に触れる事のない深海の暗闘だが、今川君達が居た海域は海流が普通と異なっていたと言っていたね」
「で、では、僕が見た物は」
「断定はできないけれど、やはりクジラの群れが大型のイカを補食している現場だったのではないかな。
知っての通り鯨は歌うような独特の声を発して仲間同士呼び合うしね」
 ──ぐちゃぐちゃ何かが潰れる音と、『神殿』の嗤う声が重なって響いていた──
赤い月の下で、フジツボ等に覆われたクジラ達が食いちぎられた巨大なイカの腕や眼球や嘴にまみれて鳴き交わしていれば、それはこの世の物とは思われぬ奇怪な光景だろう。不運な漂流者達も、そんな巨大生物達の争いの渦に巻き込まれてしまってはひとたまりもあるまい。
そんな酸鼻な情景を眺めながら、あろうことかこの男は
「陶然と──したのだそうだね」
「そ、それは──」
 身を固くする今川に、京極堂は妙な事を尋ねる。
「今川君は『竜涎香』を扱った事は?」
 ──りゅうぜんこう?
異相の骨董屋のどんぐりまなこがますます丸くなる。
「店に置いた事はないのです。なんとなく、あの艶があまり好きではないのです。
 伽羅や沈香は床の間に飾れるものを置いたりする事もあるのですが」
「聞いてみた事は」
「他所様の売り物にそんな事は出来ないのです、減るのです」
 聞く、というのは香の香りを嗅ぐ事だろう。香木の類いらしい。
怪訝な顔をしている私に気付いて、古物商は説明してくれた。
「竜涎香は高価な香なのです。見た目は大きな灰色の軽い塊で決して美しいものではないのですが、海を漂って海岸に流れつくので縁起が良いとされて床飾りにされる事も多いのです」
 えびす様の一種だな、と古本屋が頷く。
「香りの王『アンバル』というアラビア語が変化して、英語では灰色の琥珀『アンバーグリス』と呼ばれている香料だ。アラビア人は海岸に生える樹の根が伸びて海の中で樹脂が固まったものだと言い、日本では龍が交尾するときの涎が海に落ちて固まったものだとした」
「よだれ」
 選ぶに事欠いて、貴重な香をなにも涎の塊にしなくても善いと思う。
その龍の涎と、巨大イカ対クジラ大決戦にどういう関係があるのだ。
「その竜涎香が──」
 問いかけて、今川の目が飛び出すように見開かれる。
うわ、変な顔だ、と榎木津が喜ぶ。
「まさかあの場に」
 さあ、と京極堂が無責任に言う。
「その時海面には輸送物資の重油が流れ出していたのでしょう。有機溶媒にアンバーグリスが溶けて揮発する可能性もない訳ではない」
 海面に高貴な香料竜涎香が香っていた、と言うのか。
はっきりとは意識しないまま、今川達はその香りに陶然となっていたのだと。
「ちょっと待て京極堂、なんでそんな駆逐艦や魚雷艇や漂流者や鯨や大烏賊が入り乱れた海域に、そんな高価な香料があるんだ?榎さんの船は香料の密輸でもしていたのかい」
 怒るかと思ったら、元帝国海軍中尉は、おお、密輸、良い響きだなあ、などと嬉しがっている。
「あるかもしれないのです」
 今川の目が据わっている。
「竜涎香は──マッコウクジラの腸内に出来る固形物なのです。生成の原因は分からないのですが、イカを食べる事と関係があるのではないかと言われています」
 あるのか。
「抹香のような良い匂いの香を持つ鯨だから抹香鯨、と言うのさ。捕まえたマッコウクジラの腹を開いても竜涎香は百匹にひとつあるかないか、と言われているし排泄されたばかりの竜涎香はほとんど悪臭だ、と聞くけれどね。可能性が全く無い訳じゃない。確認したければ、実際に竜涎香を聞いてみる事だね」
 やめておくのです、と今川が小さな声で言う。
「きっと思い出してしまうのです。あまりあの夜の事は思い出したくはないのです」
 かつての上官が憤然として叫ぶ。
「僕はお前のせいで思い出してしまったぞマチコ!ああ厭だ、
 責任をとれ、お前はこの先一生イカもタコも食べてはならないッ!」
「駄目ですか」
「駄目だ」
 思い出すと気持が悪くて自分が食べられない、と言うのならば分かるが、何で他人が食べるのを禁止するのか良く分からない。
今川がイカやタコをぐにゃぐにゃと生で食べる光景を思い浮かべると、確かに無気味ではあるが。
「榎さん、調理してあるのは良いんじゃないか?」
「駄目。茹だってまんまるくなったタコも気持ち悪いから駄目!」
 それはまあ、ボールの様にまるまった茹で蛸を今川が丸齧りしたらそれはそれで無気味だ。
理不尽な事を命令されている今川本人はというと、妙に安堵したような弛緩した表情をしている。
もともと外見と中身が一致しにくい容貌なのだが、今は本当に重荷を下ろした気分なのだろう。
世の中には不思議な事など何もないの──だと。
「そんな巨大なイカが実在するものならば、海底に眠るクトゥルの神などもそういった生物から生まれた伝説なのかも知れませんね」
「そこいらの近海に棲むミズダコでも最大三メートルくらいにはなるというから、充分畏ろしい神になりそうだね」
 三メートルの蛸は十八メートルの烏賊より厭なのです、地上で追っかけられたら物凄く怖いのです、と真顔で骨董屋が応える。
烏賊は地上を追っかけてこないからなあ、と古本屋も恐ろしく真剣な顔で返す。

──「戦場の神殿・解」 作・ナルシア


「真っ黒いもの」


「それじゃあ、あれも」
 呟いた私に、京極堂が顔を向けた。
「未だ、何か足りないかね関口君」
「いや…榎さんがあのとき云っていたあれもそうなのか」
「榎木津さんが?」
 今川が首を傾げた。彼はあの場にいなかった。
「黒くて目ばかり大きい何か、と云っていたろう。そんなものは神じゃないとか。あれも何かの…生物なのかな」
「神像だろうな。信者が礼拝する為の」
 彼は答えた。
「壱ノ瀬博士にも連絡がてら確認してみたが、教団の秘匿された本拠地にそういうものが在る確率は高いだろうと云っていた」
「本拠地?」
「神の似姿を刻む習慣はあの島にも有る。教団存続の為には巫女の口伝のみに頼るよりは、そういう至聖所が有ると考えた方が自然だ。しかしパラオは大小無数の島々から成っている。教団の手掛り同様、とうとう見つけられなかったそうだ。そのうち、戦争に応召して彼はコロールを離れた」
「巫女だけが知る聖なる場所か」
「其れは解らない。信徒であれば皆通う場所だったのかも知れないし。しかし彼女が記憶を失くした今では、永遠の謎だね」
「記憶は──戻らない?」
「どうかな。あの時の彼女はまさしく神懸った巫女だったからね。極度の興奮時の記憶だ。完全に欠落しても不思議は無い。
彼女は、日本に渡る前に相当強い暗示を掛けられた可能性が有る。そして其れを、他の人間にも掛ける力を持っていた──其れが、巫女たる者の条件だったのかも知れない。宗教的な暗示の力は計り知れないほど強烈だ。信仰の熱に酔って、炭の上を歩く異国の行者たちも居る。数百度の炭を踏んでも、彼等の足の裏には何の跡も残らないそうだよ」
「じゃあ、神像の前で暗示を掛けられたのか」
「おそらくね」

「暗がりの中に、いっぱい居たな」
突然、座卓の下から眠そうな声がして、皆がぎょっした。
「…どういう意味だい榎さん。暗がりってのは」
「知らない。どこかの、暗い所だ。眼がぎらぎらして、松明の灯りが映ってた」
「一体では無かったということか」
「黒い木を彫って、眼のところだけ白蝶貝でも嵌め込んであったんでしょうか」
「眼には呪力が有るとして、其処を強調して作られる像は多いね」
「みんな動いてたよ」
「何が」
「──」
探偵は答えなかった。又眠ってしまったのだ。

気味の悪い沈黙だけが、残った。
──「真っ黒いもの」 作・狛犬



京極堂縁側・倫敦堂


 庭先に訪いの声がして、柔らかな色の三つ揃いに皮の書類鞄を抱えた紳士が現れた。
和風の庭にまったくもってそぐわない出で立ちの古書店主、倫敦堂主人・山内氏である。
「やあ、こんにちは関口さん。店に誰も居ないし、玄関で呼んでも返事がないからこっちに来ちゃった」
 やる気のない古本屋の戸口には、例によって『骨休め』の札がかかっているのだ。
「なんだかまた大変な目にあったんだってねえ。大丈夫?」
 既に話が広まっている。私は返答に詰まり、もごもごと口ごもって無闇と頷く。
「そう、良かった。さすがに慣れている人は違うなあ──ああ、京極君」
 座敷の主が腰を上げて、来客を迎える。
「山内さん、どうぞ上がって下さい。──散らかっていますが」
 散らかっている、というのは畳の上に長々と伸びている榎木津の事だろう。
今川が座敷の奥から深々と頭を下げるが、こちらからだと卓の下に頭を突っ込んで隠れたようにしか見えない。
余計に不審だ。
「ううん、時間がないのでここで失礼するよ。表に車を待たせてあるから」
 胡乱な座敷の客ににこやかに会釈を返し、山内氏は縁先に腰を掛ける。
「何処かに行かれる途中ですか」
 座敷の主もそのまま縁側に座る。
「うん、羽田」
 誰かの出迎えなのか。
「ミスカトニック大学から鑑定人が来るから、迎えに行くとこ」
「鑑定人──」
 京極堂の表情が強張る。
大学の専門鑑定。そういえば先日山内氏はそんな話をしていった。
随分前の事だったような気もするが、あれは一体何の──
一拍遅れて、私は引き攣った声を出した。
「か、鑑定人が来るって事は、そ、その、」
「そうなんだ。どうもこれねえ、本物の可能性が高いらしいんだって」
 倫敦堂主人が薄く笑って、傍らの革製の上品な書類鞄を手に取る。
「ほ、本物」
 そこにあるのか──あの禍々しい染みだらけの写本は。
不意に周囲の空気が轟々と吼える感覚が蘇る。
錯覚だ。どろどろと鳴っているのは私の耳の奥の血の流れ──だ。
「鑑定の結果が本物だと言う事になったら、ミスカトニック大で引き取りたい、と言う申し出を受けているんだけど」
 京極堂が片眉を上げる。
「警察も、この本は先日の溺死事件には直接関わりがなかったので遺族に返していい、と言ってきたし、奥さんは最初から旦那の蔵書は全部綺麗さっぱり処分してくれと僕に言っているしね」
 直接の関わりは──ないのだろう。
数学者は、一人の陰湿な男の金儲けの詐術に引っ掛かって身を滅ぼした。
我々の存在する次元の数学定理をも覆す深海の邪神の力──によって命を落とした訳ではない。
この写本を手にしたが故にこの世ならざる力に魅入られ、挙げ句凄惨な最期を迎える運命に引き込まれたのだとしても、この古書は「るりゑ教団」の事件には直接関係してはいなかったのだ。
それでもやはり──この写本が。
この写本の忌わしい力が、彼を殺したのだ、と私などは思う。
物理的に人間の四肢を引き裂く力ではなく、人間の心の奥底に眠る『欲』を呼び覚ます力、
人間の心の奥底が求める『神秘』を呼び起す力が、数学者を死に到らしめたのだ。

「先方は妙に急いでいて、十月中に引き渡して欲しいと言うんだ」
「十月中」
 それはまた急だ。
山内氏は意味ありげに微笑う。
「たぶんあれだよ。ほら、ラヴクラフトが書いていたでしょう。
 西インド諸島の部族が、若い娘を深海に棲む魔人の生け贄に捧げるという日が」
 はっとした表情で、京極堂が答える。
「十月三十一日、」
「そう。Halloweenの晩。ニューオーリンズ警察が沼地で邪神礼拝の現場を押さえたのもその時分だった」
「ハローイン──ってなんだっけ」
 酷い発音だな関口君、と京極堂が深海に棲む魔人も溺れそうな程冷たい口調で言う。
「十一月一日のカトリックの『諸聖人の祝日』の前夜、欧米各地では死霊や悪霊の跳梁を怖れ火を灯して夜を過ごすなどの祭事がある。ドルイド教やローマの祭礼などの、キリスト教以前の旧い信仰が今日の行事に痕跡を残しているのだろうね。古代ケルトでは十月三十一日は一年の終わり、大晦日だったのだ。
諸聖人、オール・ハロウズの前夜で、ハロウズ・イブニング、転じてハロウ・イン」
 ──万聖の宵祭。
言われてみれば映画や小説などで、子供や若者達が化け物に扮装して楽しむ場面を見かける事がある。北米では一般的な祭りなのだろう。
「じゃあ、まさか──そのハロウインの悪霊というのが」
 さあねえ、と英国風紳士が愉快そうに答える。
「だとしたらクトゥルの神は、これまで思われていた程地域限定のマイナーな神様じゃない、という事になるよね」
 京極堂が物思わし気に言う。
「少なくともミスカトニック大の専門家達はなんらかの関連性を想定している可能性がある、という訳ですか」
 私は思わず素朴な疑問を口にする。
「何に──使うんでしょう」
 使う?と問い返して、倫敦堂主人はどういう訳か一瞬、ほんの一瞬、──躊躇したように思えた。
「使う──としたら研究のためとしか言い様がないけれど、どうだろう。
 不心得者達に邪教の儀式を行われない為にとりあえず押さえておきたいのかもね」
 山内氏は小振りな色眼鏡を指で支え、似つかわしくない曖昧さで言う。何を──焦っているのだ。
それに、あれほど古ぼけた写本に興味を持ち、食い入る様に見入っていた書痴の男が、最後の機会になるかもしれないというのに鞄から出して見せて欲しい、と申し出ないのも何だか不自然ではないか。

 海鳴りが聞こえる。
こんな中野の坂の上の家で海の音など聞こえるものか。
私は小刻みに震える腕をそっと押さえる。

これ読めれば僕達でも『使える』のかなあ──と呟いて、倫敦堂が鞄を縁側に置く。
濃い色の眼鏡の硝子の表面がぬめる様に光を跳ね返す。
口元は薄く微笑んでいるが、おそらく硝子の奥の瞳はやはり笑ってはいないのだろう。
明るい庭先の光を背景に、見返す京極堂の表情は影になる。
洋装の古書店主は、薄い書類鞄を和装の古書店主の前にそっと滑らせた。

「それでどう、京極君。僕はこれ、売っちゃおうと思ってるんだけど、
 もしかして君──いる?」

和服の男は──黙っている。
目の前に置かれた鞄を凝視している。

何故答えない。
何故言下に断らないのだ、京極堂。

「いりませんよ。ウチは洋物は専門外だ」

非道く長く感じられた沈黙の後、座敷の主が苦しげに視線を外す。
ふう、と──縁側の客が笑った。

──「京極堂縁側・倫敦堂」 作・ナルシア


浦島


 ああ、今度は浦島太郎が来た。
庭を眺めながら、私はぼんやりと思う。

浦島太郎ならば波一つ立たない鏡の様な海面に日がな一日釣り糸を垂らしていただろう。
もう随分前になるが、「山の妖怪」と「町の妖怪」との違いといったような話題について京極堂と話した事があった。
京極堂によれば、町の妖怪は記号的な外見を付与され、誰もが共有できる情報として流通するという特徴があるという。
一方の山の妖怪について、私は自分の持病を治療してくれた医師から聞いた説を話した。
「グリム童話などで、主人公達が静かで暗い森の中を長時間歩き続ける場面が出て来るだろう。
あれは外界からの視覚・聴覚情報の入力を極力低める事によって感覚遮断を起こし、催眠に入る状態を現しているのだそうだよ」
 単調で定期的な刺激に慣れると、人間の感覚は外部からの刺激を認知しなくなり、意識レベルは限り無く眠りに近づく。
そして意識の深い部分に到達した主人公達は神話的・根源的な存在に出会う。
「日本のお伽噺も深い深い山奥に迷い込む話が多いから、『原型』である山姥とか大蛇に出合うんじゃないかな」
 興味しろそうに聞いていた京極堂が、山ばかりではなくて浦島太郎の話などもそうなのではないか、と言いだした。
「変化の乏しい海面を長時間見つめ続けていれば、感覚遮断は起きやすいだろう」
 催眠状態に入った後、意識の深い深い所に降りて行く過程を海に潜ってゆく事で表現しているという訳か。
「成る程。だけど、山と違って海を舞台にした昔話はあまり知らないな」
「オデュッセイアなんかどうだい。来る日も来る日も水平線を眺めながら彷徨ううちに、神だの化け物だのが暮らす島に辿り着く」
「そうか、主人公を歓待して郷里に返そうとしない女神カリュプソは乙姫、不死の神も飽かず眺めるというカリュプソの洞窟は竜宮城か。そのままだなあ」
 紀元前八世紀にギリシアで語られた神話的英雄譚と要素が同じならば、浦島太郎の物語もまさしくユングが言うところの「普遍的無意識」の産物と言える。
「キルケの屋敷もそうだろう」
 意表を突く友人の言葉に、私は反射的に異を唱えた。
「え、だってキルケは魔女じゃないか」
 美しい姿の女神キルケは屋敷を訪れた男達に酒に混ぜた秘薬を与え、獣の姿に変えてしまうのだ。
「乙姫は魔女じゃあないのかい」
 皮肉な調子で京極堂が応じる。
「乙姫は、」
──同じなのか。
黒い森の奥のお菓子の家、深い山奥の常世の座敷、海の底の竜宮城。
意識の底の仙境に棲む此の世ならぬ女性は、女神も魔女も山姥も、干渉の程度の違いはあれ、
その源は子供を包み込み呑み込んでしまう、愛情と支配欲に満ちた恐ろしい「母親」
──グレート・マザーの側面を持つのだろう。
「浦島太郎やオデュッセウスは自分の意志で『原初の母』の束縛を振り切って自立したけれどね」
 君なんかは絶対自分一人では帰ってこれないだろう、とその時京極堂は笑いながら言ったのだ。


浦島太郎が京極堂の自宅の庭先に何の用だろう。
何時の間にか絵本の筆描きの浦島太郎のようなあっさりした目鼻立ちの男が、
たった今亀の背から降り立ったように前栽の中に芒洋と立っている。
前が打ち合せになった絣の着物のような国籍不詳の服を着て、肩から魚を入れる器を下げた浦島太郎は、
首を傾げておっとりとこちらに向かって言った。
「どうしたの」
「どうって──」
 声を出した弾みに、我に帰る。
最前、機敏な諜報部員の様な山内氏が素早く辞去して以来、私達はすっかり脱力して縁側に座り込んでいたのだ。
正面から見れば、私と京極堂、話の間ににじり寄って来ていた今川が、縁側に並んでぽかんと庭の方を向いている図、というのはかなり異様だろう。
「どうもしないよ、あがりたまえ伊佐間君」
 君、水飲むだろう、とこの家の主が唐突に立ち上がって奥に行く。
「水なの?」
 話すとものすごく長い水なんだよ、と答えて私は浦島──否、伊佐間一成、
通称いさま屋の担いでいた保冷箱を受け取る。
「それ、開けて」
「何だい?」
 板張りの縁の上で保冷箱の留め金を外し、蓋を開けると──
白い煙りがぼわん、と沸き上がった。
思わず蓋を放り出して後ずさる。
ああ、危ない、関口さんが白髪のお爺さんになってしまうのです、と真剣な口調で今川が言う。
白い煙りは箱の縁を伝ってするすると畳の上を追って来る。
煙りに触れるとたちまち老爺に──
なる訳がない。
「あずきアイス」
 伊佐間が簡単に言う。
「魚ではないのですね」
「釣れなかったから」
 釣り好きの風来坊は先週から馴染みの勝浦の宿に居たらしい。
私達が巻き込まれていた大騒動の事は全く知らないのだろう。これぞ浦島太郎である。
沸き上がるドライアイスの煙の向こうからおどろおどろしく和服の幽霊が盆に水を載せて現れ、まだ海は荒れていたろう、と言う。
「うん。でも面白かった。見た事もない変な生き物がいっぱい引っ掛かって」
 食べられなさそうだから捨てて来たけど、と言う。 
「深海魚?」
「たぶん。腹が膨れてたり目玉が飛び出たりしたのがいて気持ち悪かった」
 何故か友人の古物商の顔をちらちら見ながら言う。似ていたのか。
「榎さん、アイスだよ」
 つんつんと脇腹を突くと、榎木津は畳の上の白い煙りを巻き上げながら、フランケンシュタインの怪物のようにむく、と半身を真っすぐ起こした。
そのまま熟睡していたらしい半眼をぼんやりと伊佐間に向けて、突如叫ぶ。
「あーっ、お前、見たのかッ!」
 水の入った湯飲みを手にしたいさま屋が、きょとんとする。
「それだよそれ!ほら、リューグーだよおっ母さん!」
「りゅーぐー?」
「お母上がどうかされたのですか?」
 ほらこんなのだこんなの、と榎木津は両手を伸ばしてひらひらさせる。
「伊佐間君、もしかして君は見たのか?竜宮の──」
 眉を顰めて問う京極堂の言葉を遮って、榎木津が再び絶叫する。
「リューグーのおっとっとッ──だったかな」
 なんかそんなのだったろう、と言い切る。大分違う。
「りゅうぐうのおとひめのもっといのきりはずし?」
 伊佐間が更に輪をかけて意味不明の事を言う。
「『竜宮の乙姫の元結いの切りはずし』は甘藻だろう。海藻の話じゃないよ。
 そうじゃなくて、君は」
 そんな名前の海藻があるのか。伊佐間は魚介には詳しいので余計にややこしい。
「リュウグウノツカイを見たのかい」
 伊佐間は曖昧にうん?と答える。
「え、あれ──そうなの?」
 さすがに魚に関しては、説明しなくても通じる様だ。
「伊佐間君はリュウグウノツカイ知ってるの?」
「え、うん。ごく稀に網にかかると外房の漁師の人はとても喜ぶらしいよ。
 身が魚っぽくなくて、不老長寿の薬になるっていうくらい旨いんだって」
 ──それではまるで八百比丘尼の。
「ジュゴンとどちらが美味しいのでしょう」
 同じ事を考えたらしい今川が呟く。
「じゅごん?じゅごんってあのじゅごん?」
 おいしいの?と逆に伊佐間が尋ねる。そういう噂なのです、と今川が簡潔に答える。
「君はその美味なる肉を食べたの」
「ううん、マンボウならよく食べさせてもらうけど」
 まんぼう。
ちょっと水っぽいホタテって感じかな、水気を飛ばすと結構いける、と伊佐間はマンボウの説明を始める。
「地元の人はまんぼ、って短く言うんだよ」
ちゃっちゃちゃらっちゃ、と榎木津が低い声で妙な拍子をとりはじめる。
だからそうではなくて。

私はリュウグウノツカイというものを実物は勿論絵ですら見た事が無い。
だから何度試みても、煌めく長い長い身体をゆっくりとうねらせるという
銀色の深海魚の姿を脳裏に思い描く事がなかなかできない。
私の眼前に浮かぶのは、煌めく羅を棚引かせ、長い黒髪を波打たせた乙女が青い淵に沈んで行く幻だ。
首にかけた涙の形の真珠を震えるように輝かせ、
最後のクトゥルの巫女は幸せそうに──透き通る水の奥の暗い暗い水底へ還って行く。
もう地上の誰にも竜宮の呼び声は届かない。


座敷の主の善く通る声が漸く話を戻す。
「だから。伊佐間君が見たのはリュウグウノツカイだったのかい」
 ああ、といさま屋はその時の光景を思い浮かべようとするように、心持ち天井を見上げる。
「うーん。海濁ってたし、一瞬だったし、善く分からないけど」
 でも、そうかもしれない、と年齢不詳の浦島太郎はほんの少し──満足そうに言った。

──「浦島」 作・ナルシア


乙姫の涙


透き通る水。
透き通る水。
膨大な量の透き通る水の底は暗い。
真っ暗な海底から、私はゆらゆらと浮き上がる。
黒い水は次第に深い群青色になり、広々と染まる青になり、
透き通る蒼い光が胸の上に手を組んで横たわる私の上に降り注ぐ。

──目を開けると、明るい世界の中で白い顔が私を見下ろしていた。

ああ。
私は、お父様やお母様のところには行かれなかったのだ。
真っ暗な海の底には、それは綺麗なお城があって。
明かりを灯した窓がいっぱい並んだ、とても綺麗なお城があって。

お父様が、お母様が、お祖母様が、大伯母様が、
三ツ矢のお義父様もお義母様もお義兄さまもみんないらっしゃる、
みんながいつまでもいつまでも仲良く暮らしていらっしゃる、
あのお城に、私は行けなかった。

とても行きたかったのに。
ずうっと前から私もお父様やお母様のところに行きたかったのに。

でも。

行けなかったのですね。もう永遠に行けないのですね。
私は真珠をなくしてしまったもの。

睫の間に溜まっていた海の水が、すうっと耳元に滑り落ちる。

大丈夫だよ、と声がして、大粒の涙の形の白い光が
ぽたり、と胸に当てた私の手の上に落ちる。
竜王の涙──お父様の真珠。
でも、どうして。
私が首にかけていた真珠は、私の代わりに海の底深く沈んでしまったのに。

「これはお父さんのじゃない、アキちゃんの真珠だよ」
 アキちゃん──
 なんだろう。とても懐かしいお声だ。
「これは『乙姫の涙』。アキちゃんのお父さんからずっと預かってたんだ」
 白い綺麗なお顔が高い所から微笑む。

あなたは──
タマキ?お義兄さま?それとも──
覚えている。
私がお父様お母様とお別れして淋しかった時に私を慰めてくださった、

「僕?」
 美しいお顔は明るく笑う。
「僕は、神だよ」
 かみさま──

 かみさま。
 かみさま。

私はずうっと、貴方に会いたかったのです。
──「乙姫の涙」 作・ナルシア


 「竜宮の呼び声」・完


長い間御愛読頂き、真に有難うございました



2004年10月初出・2005年1月編集



*- INDEX / 京極堂Index -*