「竜宮の呼び声」 憑き物落とし篇・後編   

怒濤の無駄知識の主・狛犬さん描く南洋邪教集団が遂にその神秘のベールを脱ぐ。
バトンを持って全力疾走、字義通りのリレー小説、瀬戸際での奇跡の連係!

信者


 天井から滴り落ちる水は、銀色の星のように尾を引いて間断なく降り注いでいる。
黒い髪から水滴を滴らせて立つ娘は、一度額を手で覆い、雫を振払った。
「中禅寺さま」
 その美しい声がいまだ保つ威厳に、木場は信じられぬ思いがした。
「貴方が石地さんについてお話なさった事はとても──とても、信じられる事ではありません。けれどもしそのような事実があったとしたら、教団はあらゆる手段を以て償いをさせていただきます。けれど」
 これほどまでに信じていたものが打ち砕かれても、彼女はまだ──厳然として、教祖なのだ。
「仮に石地さんがどれほど邪な行いを重ねていたとしても、それは彼個人の問題です。教団はクトゥルの神に仕える者の集いの場、神と信者が居ればそれが全てです」
 京極堂が眉を顰める。
「信者すら存在してはいませんよ。教団を構成していたのは教義とは無関係の竜宮水の愛用者か、石地の手先ばかりです。あるいは、貴女の奉ずる神ではなくて、貴女自身の崇拝者。この地にクトゥルの神を信ずる者など貴女以外に一人もいないのです」
 黒衣の男は、娘の正面に歩を進めた。

──「信者」 作・ナルシア


人魚


「帰りましょう、アキコさん。弐ノ宮博士も会いたがっている」

「いいえ。私──例えクトゥルの神を崇め祀る者が私一人でも、神ある限りるりゑ教団は失われません。昔に戻っただけの事です。五年前、私がクトゥルの神の教えを広めようと思った時、信者は私ただ一人でした。また、最初から、布教を始めれば良い事。
誰の助けも要りません。私だけで善いのです」
 一言ずつ区切るように云って、巫女は固い決意をあらわにする。
 京極堂の顔が、曇った。
「アキコさん。現代の神と現世の御利益は不可分なのですよ。
彼の生ける神さえ、国を守り切れなかった時には失墜しました。他ならぬ貴女が証人ではないですか。己は神に非ずと神が自ら語る、あの衝撃の後では何者かを唯ひたむきに信ずる事は難しくなりました。清らな調布(つきぬの)の如く懸命に紡がれた願いと祈りは、吹かなかった神風と共に完全に断たれた。もう誰も、神風を待ちはしない。
此れからの日本で人心を掌握するのは、はっきりと目に顕れる奇跡を振るうモノのみです。
それは既に神では有り得ない。
慎ましい敬神の礎を自ら叩き壊した愚かな国では、貴女の神は何の力も持ち得ないのです」
 用済みなのだ。彼女が愛し敬う神は、時代遅れの木偶でしか無い。
 陰陽師はそう云っている。
 がちがちの現実主義者でありながら、自らも神の社を守る立場に在る此の男のうちに、矛盾は無いのか。問うてみたいと、木場はふと思った。
 アキコは、それでも頑なにかぶりを振った。黒髪が肩に乱れ流れて、そのまま巫女の想いを表しているかのようだ。
「クトゥルは」
 張った声が掠れた。石地を見ないようにしているのが傍目にも解るから、木場は、もう好い加減にしろよと声を上げそうになった。たった一歩踏み出せば、失われたと信じていた暖かい輪の中に戻れるという時に──そんな屑ペテン師と蛸明神など、どうでも良いではないか。
 佇む黒い男は、胸の裡で次の言葉の刃を研いでいるのか。黙然と動かない。
「クトゥルは──常に私と共に在ります。神は不滅。その力を疑い、愚弄する者は必ずその報いを受けるのです」
「彼の独逸人達のように、ですか」
 低い応えに何を聞き取ったか、アキコの表情が威厳を帯びて引き締まった。
「中禅寺様、と仰いましたか。クトゥルの怒りを其の身に浴びてからでは遅いのですよ。だからこうして、申し上げているのです。不用意な言葉で大神を侮辱なされませぬように」
 推移を見守っていた石地の口元が引き歪む。
「神に深く帰依した者をその信仰から引き剥がすのは不可能ですよ、中禅寺さん。信じるものは救われる。あらゆる意味でね」
 低く付け加えられた皮肉は無論、巫女に向けられたものだったろうが──木場が見るに彼女の耳に其の言葉は届いていなかった。彼女の全神経は黒衣の陰陽師に集中していた。内から放たれていた輝きは減じたものの、信仰の敵に挑む決意は細身に漲っている。
 京極堂は顎を引き、手甲の指を黒装束の袖に滑らせるようにして腕を組む。
「神罰を受ける順番の妥当性から云えば、この石地さんなどとうに死んでいる筈ですよ。僕は、神に捧げる貴女の熱意を、盲信と切り捨てたくは無いのです。具合の悪い事に、貴女の信仰は経験に裏打ちされている。頑是無かった貴女が弐之宮博士と共に見た魚、そして過去の事件が揺るがぬ確信を生み、あの男に付入る隙を与えてしまった。人は人を善く裏切る。だが、神は人を欺かないとお思いなのでしょう。その想いが放浪する貴女を支え、力を与えたであろう事については想像に難くない」
「勿論です。真正の神は、決して信徒を見捨てたりはしませんわ。貴方は…宮司でありながら、神を否定するのですか」
 巫女のゆっくりとした声音に、木場は眉を寄せた。自分が何に刺激されたのかも、それが何故かも、解らない。彼女らしくもない、沈んで単調な声のせいか。そう云ったときの顔つきのせいか。小さなささくれを捩り切られたような、無視できない違和感だった。訝りながら見ていると、巫女は胸の真珠に指を伸ばして包むようにした。陰陽師に向けられた眼はくっきりと開かれて、光を吸い込むような深い黒に変じている。
 中禅寺は、小さく笑った。
「今此処で、神の非在を証明するには時間が足りませんし、それは僕の仕事ではない。
僕は、貴女が神の業と信じている行為を否定するのです。
貴女の信仰を支えるもう一つの柱は、パラオで起きた五十年前の事件ですね。
そう──その話が未だ途中でしたね。玉砕の島アンガウルと独逸人連続殺人事件の話が。
独逸人達の怪死の原因が神聖なる裁きの結果か、無慈悲な殺人なのか、その何れなのかは今は置いておく事にして──

彼等の死の発端となったのが人魚の首だった事を、貴女は御存知でしたか」

 京極堂が発した質問は、既に話を聞いている木場以外の人間にはとても奇異に響いたようだ。石地は嘲りを浮かべた顔をぐいと背け、他の人間達も鼻白んで目を瞬いた。
「ニンギョって、そりゃあ牛だろうが馬鹿刑事」
 此方を真っ直ぐに見て叫んだ探偵を、木場はぎょろ目を向いて睨んだ。
「善いから黙って聞きやがれ馬鹿探偵!」
「京極堂…其れは…本気で云っているのかい」
「人魚ってのは、どっかの寺で祀ってるような、猿と魚を引っ付けたやつですか師匠」
 懐疑的な言葉が次々と投げ付けられたが、黒衣の男は悠然と構えている。
「人魚と呼ばれる生き物は、実際は美しくは無いのだよ、榎さん。波間に浮いて、鰭と化した腕で子を抱いて乳を遣る仕草が人と似ているだけさ。
僕が云っている人魚は、海牛目の儒艮という動物だ。本邦でも沖縄の海に棲み、常世神の乗り物とされている。海の牛と称される通り姿は醜悪だが肉は非常な美味、食べれば誰でも気軽に八百比丘尼の気分を味わえるらしい。沖縄より南のあの辺りでは、パラオ周辺でよく見られるそうだ。
そういう生き物の首の骨が、アンガウルの内陸から掘り出されたのだ」
「食用に供される獣なら、骨など人の住まいの周りの何れからでも見つかるでしょうに」
 嘯く石地の方を一顧だにせず、中禅寺は言葉を継ぐ。
「唯の骨ではありません。独逸人達が見つけたのは儒艮の第一頚椎だった」
「第一頚椎ってェと…頭じゃ無くって首んところ。てぇか、首そのものですよね」
 口を挟んだ鳥口は、そのまま腕を上げて頭の後ろを撫で上げる。
「ああ。人で云うなら此の辺りだね。
骨が見つかったのは、アンガウルの燐鉱試掘現場。
此れが如何なる事態を意味するかは、パラオの風俗と歴史に通じた人で無ければ解らない。
アキコさんは、儒艮の骨から作られる腕輪を知っていますか」
「ジュゴンというのは…メセキウのことですか」
「うん、それ」
 巫女の記憶に何を観たのか、榎木津が野放図な大声で請合った。
「草食の、大人しい海の哺乳類ですよ。現地の言葉ではそう呼ぶのですか」
「メセキウの骨の腕輪でしたら──オレウルといいます。長たる者が身に付ける、貴い身分の証ですわ」
 アキコに向かって、京極堂は大きく頷いた。
「見つかったのも、単なる骨ではなく、しかるべき加工を施された腕輪でした。
アンガウルの燐鉱を発見したのは独逸の学術探査船プラネット号で、採掘はまだ開始されたばかりだった。パラオとヤップから徴用された労働者達がそれを掘り出したのは、初期の地質調査で目星をつけた処を掘り返していた時らしい。次の日、更に掘り進めるともっと大変なものが出た。
人骨が出たのです。それも一体ではない──数え切れないほどの骨が」
「ほ、他にも大量殺人が?」
「骨は全部で百数十人分ほど有ったらしいが新鮮なものでは無かった。独逸側にしてみれば崩れかけた古い骨の山だ。彼等は、出土した骨を全て燐灰石を扱うように処理しようとした」
 関口が、目に見えて怯んだ。
「人の……骨を?」
「我々の骨や歯は水酸燐灰石で構成されて居る。つまり、皮肉な事に、燐鉱石と成分的には何ら変わりは無いのだよ」
「は。ばかばかしい。其処はアンガウル島民代々の墓場だったのでしょう?」
「そうだったら善かったんですがね」
 陰陽師は不機嫌そうに元司祭を振り返った。
「もう一つ付け加えておきましょうか。パラオ全島の掟として、アンガウルを統べる者は、オレウル(人魚の腕輪)を身につけることを許されていないのですよ」
「……どういう意味スか」
「遺体は全て、アンガウル島の外から運ばれて来たのだ。少なくとも、作業に従事していた者達はそう解釈した。
彼等は──骨の山の身元に心当たりが有ったのだ」



 密林から掘り出された、無数の人骨の山。
 島に有るはずの無い、人魚の腕輪。
 遠い島の過去が放つ血腥い香りに、闇の中の人々は静まり返った。


「我々は無責任に南海の楽園などと云うが、此の世の中、人間が暮らしている以上は争い事が絶えない。パラオでも、前世紀半ばまでは各島の有力者たちが覇権を競っていた。それに拍車を掛けたのが西欧世界との接触だ。外国の軍人を殺害した者も居る。逆に英国軍艦と手を結んで、敵対する連中を掃討しようとした酋長も居た。
骨は、そういう熾烈な部族間の戦に負けた或る一族の形見だった」
 中禅寺は、陰鬱な顔で話し続ける。
「でも、どうして…? 戦争で勝って、どうしてわざわざ? 勝てばカンカンノウってやつで、やっつけた死体を隠す理由は無いじゃないスか」
「理由は有るんだよ。アンガウルは、或る人々にとっての青の島だったらしい」
「オウノシマ?」
「…鳥口君。日本が南洋を得る切っ掛けになった国連委任統治では、南洋群島は最も後進的な地域としてC式の対象と認定されたのは知っているかな?」
 え、とか、う、とか聞こえる声を出してから、鳥口は首を横に振った。雑誌記者ではあったが得意な方面では無かったのだ。
「C式委任統治条項では、統治国側は、対象地域での施政、立法の全権を認められると同時に、強制労働や飲酒、軍事施設の建設の禁止などの様々な制約を受ける。信教の自由の保障も義務だ。だから、西班牙・独逸統治の名残りとして、島民に広まっていた新旧基督教を日本も黙認せざるを得なかった──そのほかの宗教についても、それは同様だった」
「ほかの宗教って」
「クトゥル信仰以外にも、島に古くから伝わる土俗的な信仰と基督教が習合した宗教が有る。今も、島民の一割程度が信仰して居て、日本統治下で『神様事件』を起こしたのもその一派らしい。いずれにしても日本統治になってから急に湧いて出たのではなく、独逸が西班牙から譲り受けた当時から様々な土着宗派が活動していたのだよ。或いは、もっと古い時代からね」
「あー、えーと…それと、オウマノシマとかいうのがどう繋がるんスか?」
「馬では無いよ。青と書いてオウと読む。青の島というのは、本邦最南端の島々に伝わる習俗でね。自分たちが住む島に近い小島を『青の島』と呼び、人が亡くなると其処に遺体を運んで、海岸近く、波に攫われるように安置するのだ。一種の風葬だね。かなり古くは本土でも行なわれていたそうだ」
「遺体を海に…流す?」
 呟いた関口に、陰陽師が鋭く探るような視線を走らせるのを木場は見ていた。折角言葉の網で引き上げた友人が、再度想像の海底に沈んでいくのではないかと危惧したのに違いなかった。平生は、同じ相手を言葉で態度で冷たく突き放す癖に、変なところで面倒見が善い。
「積極的に流すのではないよ。洗われるように、置くのだ。海の彼方に有る世界への、死者の旅立ちを容易にする為だよ。
青の島は、死者や先祖が棲まう常世により近い場所と考えられていた。反対に、常世に棲まう存在が此の世に現われる時は、先に青の島に上陸してから本島にやって来る。
目と鼻の先の島でありながら異界の橋頭堡と認識されるのが、青の島なのだよ。
太平洋の島々では、日本も含めて、非常に似た内容の話が各々伝わっている事が多い。人の移動と共に民話や習俗は伝播する。沖縄の『青の島』に似た習俗が南洋に有ったとしても不思議はない、と壱ノ瀬博士は論文に書かれていた。彼は、地質学の優秀な研究者で有りながら、南洋の民俗文化方面に対する強い興味を持ち合わせていてね。中々に得難い論文だったよ。博士が現地調査から引き出した結論に拠れば──殺された一族が、『青の島』と同種の教義を持つ信仰集団だったとするなら、本島或いはコロールからアンガウルへの大量の死体の移動も葬祭儀礼として説明が付くのだ。尤も、完全な風葬ではなく土中に埋葬されていたのは基督教の影響があるのかも知れないが」
 京極堂が言葉を切ると、石地が嘆息した。いかにも嘆かわしそうに首を振ってみせる、芝居じみた仕草に、非難の眼差しが集中したが、本人は意に介した様子も無い。
「またお得意の推測ですか。その人数なら、一族皆殺しでしょう。そんな面倒な祭礼を、滅ぼした敵の為に誰がするというのですか」
「それを指揮した人間が──一族の生き残りが、居ましてね」
 中禅寺は、唇の端をつり上げて嗤った。
「先程も云った通り、パラオで最も強力なのは、悪しき神。殺された一族が崇めていた神も、そういう力有る獰猛な神々の一柱として知られていた。
生き残りは、女性でした。相手方に捕らえられはしたが、全身に特徴有る刺青を施していたせいですぐにその地位が知れて、殺されるどころか大層丁重な扱いを受けたそうです」
「刺青?」
「南方では珍しい風習では有りません。例えば沖縄の或る島では、婚姻した女性は必ず刺青をしたそうです。刺青を施される前に命を落とした女性には、棺に納める前に墨で同じような模様を描いてやった。刺青が無い者は極楽に行けないと信じられていたからです。パラオでも女性の刺青は普遍的な風習でしたが、この女性の場合は、一風変わっていました。幾何学的な配列で、大小の円盤状の模様が顔以外の全身を埋め尽くしていた、と記録には有る。手脚の先端に行けばいくほど円が小さくなり、各々の指の、爪の根元近くまでその模様は続いていた。この刺青は、神に嘉された聖別の徴だといえば解りますか、アキコさん。
彼女は、貴女と同じ、深海の神クトゥルに仕える巫女だったのですよ」
「──」
 アキコは瞬き、唇を震わせたが、何も云わなかった。
 石像と化した巫女にぴたりと目を合わせて、陰陽師は先を続ける。
「同胞たる人間であれば西欧人の銃器で圧することができるが、神には逆らえない。勝った一族にしても、強大な神を怒らせたくはなかった。だから神意を体現する巫女の指示に従って、山のような遺体を船に載せ、わざわざアンガウルにまで運んで葬ったのでしょう。その後、巫女は家を与えられて、それまで通り深海の神を祀ることを許され、勝った一族もクトゥルを祭神に加える事に同意した。
以上が、燐鉱で骨が見つかるまでの経緯です。現地の人は皆知っていたが、独逸側は、当然知る由も無い」
「そんな……いわくつきの骨を、燐鉱石と一緒に処理したんスか」
「ああ。話は、全島に速やかに広まり、巫女の子孫の元にも届いた。

戦から五十年以上を経たその頃には、方々から王族や長老達を含む信者が集まり、再び大きな信仰集団…所謂るりゑ教団を作り上げていたらしい。蛸の神を崇める人間はいくらでも居たというわけだ。
やがて──死人が出た」

──「人魚」 作・狛犬



島・遠い過去


小舟は、穏やかな夜の海面を滑るように進み出した。
振り返ると、明るい月の下、此処まで送ってくれた男達の船が浮いている。
皆こちらを見ていたから手を振ると、何人かが手を振り返してくれた。
島周りの海は、魚を探す大鷺が立てるほど浅い。重い船に大人数では進めない。
どのみち、此処からは先に行ける人間は限られていた。
舳先にもたれて、行く手を見やる。
ひしめきあう島影の中で、ひときわ大きい島がこんもりと盛り上がって居た。
高い岩山までを覆う森が、月光を浴びて艶々と輝いている。
波に穿たれた大きな洞窟が有るその特別な島―――メデリプへ、船はぐいぐいと引き寄せられていく。
櫂が透明な波を抉り、水音を滴らせる。
黒と白の斑の浅い海底には、風が海に刻む波模様が揺らめいている。
列を成す海草の合間に、小魚が見え隠れする。海蛇が陰から陰へと、鮮やかな縞に彩られた身をくねらせる。
背後で櫂を操る人影は口を利かない。小舟に乗り移った時から、既に儀式は始まっていた。
メデリプというのは、此処に石貨を切り出しに来た遠くの島の人間達が残した名だ。
島の崖を、熱した貝殻の斧で根気良く削れば、光を透かす石が現れる。
そうやって運良く七つの巨大な石塊を切り出したから七(メデリプ)の島なのだ、と人々は云う。


だが一族にとっては、此処は、ずっと祭祀堂(ウレンガン)の島だった。


小船は、すいと島と島の間に入り込む。
水際から脚に似た多数の根で立ち上がる樹林が視界をさえぎった。
見上げた空には大蝙蝠が群れ飛んでいる。
羽ばたくたびに皮膜が月明かりに白く翻った。
もうすぐだ。
冷たい畏怖に震える身体を、少女は自ら抱き締めた。
──「島・遠い過去」 作・狛犬

独逸人の死・解


「死人―――独逸の連中か」
 榎木津が眠そうな声を出した。陰陽師は首肯した。
「燐鉱採掘担当者の殆どがやられたよ。アンガウルのみならずあの辺りの島に居た独逸人の人口は三百人足らずだったというから、死者十数人というのは驚くべき数だね」
「彼等は死を以って、クトゥルの聖所を荒らした罪を贖ったのです。当然の報いです」
 アキコが強く云い切る。其れを面白そうに眺めやった探偵が、一拍置いて、顔をしかめた。
「それは――何だ?」
「何…ですか」
 面と向かって訳の解らない事を問うて来る相手を、アキコは硬い表情で凝視め返す。探偵は眩しいのを我慢しているような中途半端な顔のまま、教祖に視線を据えて居た。
「その、真っ黒いのは誰だ」
「まっくろい…?」
「耳も唇も無いのに眼ばっかりでかい。何だその変なのは」
「何の事を…おっしゃっているのですか?」
「おい礼二郎。てめえ、」
 何を視ている。
 木場の背筋を伝う汗が冷えた。榎木津の言動は奇天烈だが嘘が無い。彼の眼には確かに『何か』が映っている。アキコは居心地が悪そうだが、それは探偵の放言が奇態な言い掛かりとしか思えないからだろう。その様子からすると本人も忘れている事かも知れない。アキコは一体何を「見た」のだろう。思わず京極堂を振り返ると、彼も又、何か思案するような厳しい目をしてアキコを見ていた。
「京極、おい――」
「話は未だ終わっていないよ旦那。僕は関口君ともう一人、此のひとも地底から連れて帰らねばならないのだから」
「関口様はお帰りになってください。私は、神の言葉に耳を傾ける人々の許に参ります」
「此れは弐之宮博士からの依頼でもあるのです、アキコさん」
「タマキが?」
「戦争を生き延びて無事で居るのならば何としてでも逢いたい、と博士は仰っていたそうです」
「ああ――」
 嘆声を洩らして、彼女は薄く目を瞑った。混じり気の無い喜びと、悲しみが宿る微笑の、何と清純なことか。木場は見守り続ける事に自責の念すら覚えて、密かに周りを見回した。僅かに頭を垂れた巫女の姿から目を離せなくなっていたのは、彼ばかりではなかった。
「貴女を慈しんだ研究員達が教えてくれた事実を、其の侭お伝えしましょうか。
人骨を非道な方法で闇に葬った独逸人技師達は、次々と死んでいきました。最初の犠牲者は測量士だった」
「溺死でもしたのですか?」
 陰陽師は石地をちらと見た。
「先程説明した通りですよ。彼は、会議の席で急に口が利けなくなった。変事にうろたえ騒ぐ周囲が処置を施す間も無く、倒れ、喘ぎ、十数分程して死んだ。死因は窒息と確認された」
「―――」
「続く数日の内に、衆人環視の中で十数人が全く同じ症状を呈して死にました。現地では悪神の復讐だという噂が蔓延し、独逸人達は次は自分の番かと恐れ戦いたそうです」
「でも、それって、ほんとに祟りなんスか?」
 鳥口がアキコを気にして、横目で窺うようにしながらおずおずと訊ねる。陰陽師も、内心を見透かすような眼差しを巫女に投げた。
「鳥口君と同じ様に思った人間が独逸人の中にも居てね。現地人の間に流布する噂を徹底的に調べ上げ、結論を出す直前に―――やはり死んだ。仕上がる直前だった調査報告書も見つからなかったそうだ」
「迷宮入り?」
「そう成りかけたから、焦った独逸側は作戦を変えた。後に日本も採用した簡便且つ効果的な手段を取ったんだ」
 中禅寺はつまらなそうに嘲笑った。
「報償金を用意して、密告者を募った。洗練された方法では無いが、独逸側も追い詰められていたようだ。結果としては効果甚大。一気に数十人が検挙された―――クトゥルの氏子達がね」
「神の為される事に間違いはありません。独逸人達がした事は教団に対する逆恨みです。神域を侵した自分達を恥じねばならないときに、彼等は復讐の矛先を罪の無い信徒に向けました」
 巫女の告発は澄んで善く響いた。
「物証は――有ったのかい」
 物思わしげに呟いたのは、関口だ。皆が振り返った先で、陰陽師は横に首を振った。
「無い。検挙された人間の中には相当な有力者も含まれていたから、平生の嫉み妬みが密告の原動力と成った可能性も否めない。実行犯の目撃者も皆無だったが、前の支配者だった西班牙人と違って人数で圧倒的に劣る独逸人達は、不可視の恐怖に脅かされて、理性的である事を止めていた。すなわち、物証の有る無しに係わらず捕らえた者達を獄中に繋いでしまったのだ。周囲が全て共犯者であると目される時に物証等は問題にはならないのだよ。植民地の支配者というものは、四六時中潜在的な敵に囲まれて暮らしているようなものだ。厨房の人間、給仕、運転手、召使―――周囲に侍る現地人悉くが即時に暗殺者となり得るのだからね。
皮肉にも、真実が明らかになったのは不当とも見える大量検挙の翌朝だった。朝、見張りの兵士がやって来ると、囚人は半分にまで減っていた」
「え――」
「牢として使われていた室内には、絶息した男女が折り重なって倒れていたそうだ。慌しく検死が行われた結果、全員が窒息死だと判明した。独逸人達は俄然勢い付いた。自殺しなかった囚人達に対する尋問は苛烈を極め、そうして漸く真相が明らかになった。

独逸人達は毒を盛られたのさ。蛸の毒をね」

 石地が、耳から耳へ口を裂く様にして笑みを作った。
「蛸の毒ですか。ものの喩えか何かだとしても、笑えませんね中禅寺さん」
「喩えでは有りませんよ」
 陰陽師も微笑った。
「正真正銘、蛸が其の体内で作り出した毒ですよ。そもそも毒というのは、下等動物に特徴的な属性なのだそうです。所謂高等な温血動物で強い毒を持っているのは、南半球に棲む単孔目等数えるほどの種類しか居ない。翻って爬虫類を頂とする冷血動物や無脊椎動物においては、枚挙に暇が無いくらい数多くの有毒種が居る。自分よりも進化した敵に対する効果的な防御、或いは獲物に対する攻撃手段として、彼等は毒を用いるのです」
「でも、毒のある蛸なんか聞いたことないすよ。刺身にしたら、当たっちまいますよう」
「一般的に、蛸の毒は人間には効かないから話題にならないだけさ。彼等の毒は唾液腺から分泌されて、固い嘴で噛み付いて獲物を麻痺させる時に使われる。弐ノ宮博士に拠ると、此れは河豚と同じ一種の神経毒で、南洋方面に産する或る種の蛸の毒だけは、人間にも激甚な効果をあらわすのだそうだ。安らかに海底に沈んでいる時は我々の知る蛸と余り変わらないくすんだ体色だが、興奮すると目の醒めるような蒼色の斑紋が体表に浮かび上がって、其れと解るらしい。クトゥルの氏子達は、島の周囲の珊瑚礁の海からこの蛸を捕らえて来たのだ」
「狙う相手を…蛸に噛ませるのかい?」
 それは無理だね、と中禅寺は関口の言葉を一蹴した。
「しかし唾液腺を摘出し、微々たる量だが其の毒液を集めれば、後はどうにでもなる。目指す相手の血液中にその毒を注入すれば、十数分後には激烈な効果が生じる。被害者の口や呼吸機能の麻痺やその他の記録―――蒼白な顔色、視界の霞みなどは、まさに神経毒が齎す症状に当て嵌まる」
「蛸教団にはぴったりの暗殺方法だよな」
 木場は、厭そうに云った。
「誰が誰に如何にして手を下したかについては、今となって解らない。取調べと裁判ではさぞ詳細な調書が作成されたのだろうが、僕が読んだ資料では、そこは眼目では無いから割愛されていてね。だが例えば、髭をあたる剃刀を切れ味の悪いものに差し替えて刃に毒を塗っておけば、事は足りたのではないかな。毒が血中に混入されれば或いは、履く靴の中に毒を塗った鋲でも仕込んで置いたのかも知れない。独逸人に召抱えられていた現地人達が互いに協力しあえば造作も無いことだからね。自殺した囚人達も尖らせた木の欠片に塗って、毒を牢内に持ち込んだらしい。
検挙の六年後、日本が独逸から引き継いだ囚人は風邪やチフスで僅か数人にまで減っていた。西欧人による監禁は、免疫を持たない島の人々には余り芳しくない結果をもたらしたのです。問題のクトゥルの巫女は―――」
 京極堂はアキコの方に踏み出した。
「独逸人達が手を回したときには、もう雲隠れしたあとでした。
この一件に関心を持った壱ノ瀬博士は、研究の合間に聞き取り調査をなさったそうだが、全島を巡ってもるりゑの巫女と信徒達の行方は知れなかった。暫定的為政者よりも神を怖れた者達が再び彼等を匿ったのだろう、というのが博士の結論でした。
パラオは母系社会だ。アンガウルに一族を葬った巫女と、独逸人暗殺を企んだ巫女の間には血縁があったとに違いないが、此処では血の繋がりは問題にならない。教義を受け継ぐ者さえ居れば、教団は命脈を保つ事が出来ます。それに関しては仰るとおりです、アキコさん。流し込まれる知識に感応し我が物とする力さえ有れば、優秀な巫女が誕生する。貴女自身が善い例です。
しかし―――もうお解りですね。神は復讐しない。独逸人に手を下したのは人間でした。
あれは神罰でも何でもなかったのですよ」

──「独逸人の死・解」 作・狛犬


神像


返答は無かった。

半世紀の間畏れられた海神の呪いも此の世ならぬ力に依るものではなかった。
これまで信じて来た悉くを打ち砕いてゆく黒衣の陰陽師に無言で背を向け、
教祖は固唾を飲んで立ち尽くす教団員達の前に歩み寄った。
重さの無い精霊のような足取りである。
厨子を抱いた教団員の前に立つと、観音開きの扉に華奢な手をかけて開く。
どろり、と闇が垂れるような暗い匣の底に奇怪な神像が蟠っている。
柔らかく崩折れるように、無力な教祖は壇上に膝を突く。
乱れ掛かった黒髪の間から、微かに唇が動いているのが見える。
祈っている。
神秘の力を奪い去られた郷里の邪神に今更何を祈るのか。
最早人の言葉など信じられない。人間の言葉など信じない。
海底の石の都に眠る古き神々の言葉に直接触れる事を望むのか。

「これは、違うよ」
 はっとして顔を挙げた彼女の前には、神像ではなく長身の男が立っていた。
「さっきのへんなのとは、違う。こんなのホンモノじゃない」
 さっきの──
 意味を図りかねるのか、娘は高い位置にある探偵の白い顔に見入る。
黒い和服の男が、探偵の背に押しやられている教団員から厨子を受け取る。
神像を納めた厨子は、間近で見ると丹念な細工が施された豪奢なものだ。
観音開きの扉の上に載せられた反り返った瓦屋根、そこここに飾られた魚の浮き彫り、
いずれも細密な彩色が施され、磨かれた貝が嵌め込まれている。
「これは──厨子甕のようですが」
「じん。え、『じんすがーみ』?」
 聞き鳴れぬ単語を、鳥口が口を歪めて復唱する。
「ずしがめ、と書くが、呼び方はそれぞれの土地の言葉によって少し異なるね。戦後は火葬も普及しつつあるようだが、沖縄とその周辺の離島では伝統的には火葬は行わない。風葬や土葬、墓に安置するなどこれも時代や土地によって方法が異なるけれど、遺骸が骨になるのを待ち血縁の最も近い女性が洗い浄める。洗骨と言う大切な儀式だ」
「洗い浄めるって」
 場面を想像してしまったらしい小説家が擦れた声で言う。
「残った皮や肉を剥がさないと綺麗な骨にならないだろう。篦で余分なものをこそげ取り酒で洗って珠のような白骨になったら、こういった屋根の付いた箱型や丸い蓋の壷形の骨壷に納める」
「骨壷なのか」
 骨壷ならば不謹慎な古本屋が菓子を入れて愛用しているのを木場も見慣れているが、これは全く形態が異なる。知らない者は誰もこの細工箱を骨壷とは思わないだろう。
それは壮麗な館を象った、まるで、
──竜宮城。
「最も一般的な厨子甕は釉をかけた焼き物だが古くは石や珊瑚や木を彫ったものも多いらしい。これは持ち運びが簡便なように木で作られているな。扉も開くようになっているし、墓に納める訳ではないから、形だけを模したものなのだろうが」
「私が彼女を見つけた時、福岡のバラックにはもうそれがありました。
 場違いに豪華で可笑しかったですね。信者の一人が作ってくれたものらしいですが」
 沖縄の出身者だったのでしょうかね、と冷笑するように石地が口を挟む。
「気味の悪い神像がむき出しで居るよりは有り難みがあってずっと良いでしょう」
「しかし、これは本来神の居る場所じゃない。これは」
 何の話をしている。
附に落ちない様子で厨子を検分する陰陽師に、木場は苛立って声をかける。
「箱なんざどうでも良いじゃねぇか、」
 彼女を、彼女を早くなんとかしてやってくれ、と手を貸す事すら出来ない刑事は思う。
そうだね──と京極堂が顔を上げる。
「失礼しましたアキコさん。どうか立って下さい」
 消え入りそうに見える教祖の傍らに関口が寄り添い、そっと立つように促す。
京極堂は厨子を下に置いて、扉の中から取り出した小振りな神像を黒い手甲を嵌めた手の上で眺めた。
何か非道く厭な物を見る様に目を細め、次いで視線をやっとの事で立っている教祖の姿に移す。
視線を落とす。
──躊躇っている。
らしくもねぇ。さっさと済ませちまってくれ。
胸騒ぎを押さえ、縋る様な思いで木場は見守る。
陰陽師は右手に像を載せ、教祖の前に差し出した。
刹那、金色の薄物を纏った腕が素早く伸び、小さな石像をひったくるように抱き取った。
怯んだように黒い和服の影が身を引く。
予想外の動きにぎょっとして、娘を取り囲む男達の影も一斉に強張る。

「アキコさん」
 陰陽師は非道く固い声で問う。
「その像は、貴女にとって大切なものですか」
 まるで愛しい赤子を護る様に醜い像を抱いた教祖の返答は──力強いものだった。
「とても──とても大切な、何物にも代えがたい大切なものです」
 このうえなく失望はしていても、絶望はしていないのだ。
この神像さえあれば。
「なぜですか」
「え」
「なぜこの神像が大切だと思われるのです」
 なぜ、と問われても急には答えようがないのだろう。
教祖は半ば目を閉じ、腕の中の像を撫でながら途切れ途切れに言う。
「神像は、神の貌を象った像があると言う事は、その神を尊んだ人々が居た証です。
 多くの人に尊ばれる神──とは、それだけの真の力を持っていて──だからこの像は」
「誰がその像の神を尊んだのですか」
「────?」
 問いの意味が良く判らない。
「よく考えて下さいアキコさん。その像は、『どこから来た』のですか」
 虚を突かれたように、教祖は腕の中の像を見る。
やはり、といったように頷き、黒衣の男の表情は一層暗くなる。
「その像は貴女がパラオから持ってこられたものではないようですね。
僕が今朝見たのはこの像のデザインを基に石地さんが拵えたレプリカでしたが、
その時は貴女の故郷の教団で使われた像があるのかと思っていた」
 榎木津幹麿氏失踪後に残された無気味に滑る蛸のような像は、木場も古本屋の座敷で見ている。
まるで死んでいながら生きているような──
「あの妙なイカタコ坊主はこの野郎が作ったのか?」
 僧服の詐欺師に目を遣ると、男は口を固く結んで──笑いを噛み殺している。
「あれは太古の未知の技術で神の姿を模した像ではないし、神の眷属の遺骸などでもない。烏賊や鮫や雲丹といった下らないものの部分を組み合わせてでっちあげた、ただの作り物のオモチャだよ。さっき鳥口君が言っていた、如何わしい人魚のミイラの同類のようなものだ。古物商をしている友人に頼んで、そういったものを作るのが得意な細工師の人に見て貰ったのです」
 一見鈍重に見えてその実頭の切れる骨董屋、今川の不可思議な容貌が木場の脳裏を過ぎる。
「もとが海産物の干物だから、今日みたいな湿度の高い日には空気中の水分を吸収してぬめりが出てくるし、潮の匂いもするだろう。よく出来てはいましたよ。あれならば高額で購入して有り難く押し戴くるりゑ教信者も居た事でしょう。生憎、榎木津氏は一顧だにしなかったようですが、そのイカものを届けてくれた若い友人等は相当に気味悪がっていた」
 益田ばかりではない。実のところは木場も相当──厭だった。
「あんなのこそ、それこそどうでも良い、のだよ。問題なのは──こちらの石像のほうだ。彼女が信じ込んでいる南洋の教団の神の力と言うものが実体の無いまやかしだと説明しさえすれば、神像の有り難さも消えるだろうと思ったけれど、どうやら出自が違ったようだ。アキコさん、その像は──」
 す、っと影が動く。傍らに立っていた榎木津が、京極堂の耳元に何事か告げたのだ。
ごく短い言葉だったが、木場にはその言葉が伝えた緊張が感じ取れた。
榎木津は少し下がって、無言でその場に留まる。
暗い洞窟の中で何を見たのだ。
一瞬松明の光を受けて、透き通った茶色の瞳がすうっと細められる。


──「神像」 神像の設定・やまい 作・ナルシア





「貴女はそれをどこで手に入れたのですか」
 榎木津の言葉を受け、何かを思い切ったかのように京極堂はこれまで娘には向けなかった強い声で問う。
「五年前、貴女は日本の人々は戦争中現人神ではなくクトゥルの神を祀るべきだったと気付いたと仰っていましたね。そのアイディアは何から思い付かれたのですか」
「え?」
 そういえば。石地が失踪していたアキコを見つけた時、彼女は既に自ら教祖だったのだ。
「天啓、と仰った。何か切っ掛けになる出来事があったのではありませんか」
 教祖の表情に戸惑いが現れる。
「憶えて──おりませんわ、ある日、いつものように空ろな心持ちで海辺を彷徨っていて──ふっと」

「神風が」
 1274年の文永の役、1281年の弘安の役。
 神風を吹かせた存在は
 広大な大洋を自由に行き来し暴風雨を引き起こす荒ぶる海神──

 黒衣の男は教祖の腕の中の像に手を伸ばして裏返し、その背中を現した。
文字が刻まれている。
『府無具流伊無具流奈宇府 九兜流腑 留 蜊獲 宇牙奈具流 府多軍』
 数学者の写本の奇怪な文字ではない。漢字だ。通る声が読み下す。
「ふんぐるいむぐるうなふ くとうるうる る ゐゑ うがふなぐる ふたぐん」
 そのまま彼女の耳元に顔を寄せ、低い声で囁く。
「永遠の憩いにやすらぐを見て 死せる者とよぶなかれ
 果て知らぬ時ののちには 死もまた死ぬ定めなれば」
「それは、」
 身体の何処か遠くから響く男の声が、目の前の男の声と重なり共振する。

「知っているのですか」

潮風の中で発せられる男のよどみない言葉が、脳裏に灼熱した光となって刻まれる。

 荒ブル神 豪キ神 闇ヲ喚ビ波濤ヲ孵シ 持ッテ寇船ヲ覆セリ
 呑マレシ賊兵万余ニシテ数フルコト能ハズ

男の声が男の声が男の声が。

「あ、あなたは──いいえ、違うあなたはあの方ではない。ああ、でも」
 教祖の艶やかな唇は激しく震え始めた。
見開かれた黒い瞳が、初めて見るもののように黒い拝み屋の影に吸い付く。
「似ていますか、僕は──あの男に。あなたはあの男に会ったのですね」
「あの男」
 京極堂は傍らに燃える松明を取り上げると、真横に腕を振り、斜めに振り下ろし、また斜めに振り上げた。
もう一度、こんどは腕を逆に振る。
洞窟の闇の中に松明の火が金色の軌跡を描いた。
三角を二つ重ねた六芒星が空中に浮かび上がり、緑色の残像を残して消える。
「ああああ」
「この星の紋に見覚えがあるのですね」
 娘は金色の羅を巻き付けた腕で口元を覆った。
それでも押さえきれぬ呻き声が洩れる。
松明に片側を照らしだされた陰陽師の目の下には、暗い隈が刻まれていた。
「あの男はとんだ食わせ物です。彼奴がどんな出鱈目を語ったのかは知らないが、大体察しはつく。あの男が貴女に吹き込んだ尤もらしい言葉の数々は貴女をいい様に操るための出任せだ。彼奴はそうやって他人の人生を弄ぶのが楽しくて仕方がないのだ。貴女はとんだ男に見込まれてしまった」
 それは。
「おい、まさか、あの野郎が今回の事も」
 木場が驚いて叫ぶ。榎木津が短く告げたのはそれだったのか。
 あの──伊豆の騒動を操った底知れぬ悪意の主が、
「いや」
 京極堂の声の冷たさに、居並ぶ男達までが凍りついた。
「いくら彼奴でも当時はそこまでは画策しちゃいなかっただろう。こんな悪趣味なオモチャと口先だけで、特殊な環境にあった失意の王女を惑わすのが面白かっただけさ。
しかし、五年前の悪戯の種が石地というまたとない養育者の丹精によって、『るりゑ教団』という派手で奇怪な花を開いたのを知った時、奴はさぞかし愉快に思っただったろう。愉快ついでに自分の仕掛けを誇るために関口君を攫って僕を呼びつけたのだ」
 抑えていた怒りが──氷の様に酷薄な口調となって周囲の者を震え上がらせる。
「自分が引き起こした遠因と今回の教団騒ぎという結果を関連づけられる者は、この世に僕だけだからね。僕は彼奴の唯一の観客であり批評家だ。アキコさん」
 かん。
固い下駄の音を響かせて、黒装束の男は金色の教祖の正面に向き直る。
「貴女が五年前にあの男に信じこまされた神もまたまやかしだ。パラオの海と風の破壊力と恵みを神格化した素朴な現地信仰と、日本の神国思想との間には同じ様に海に囲まれる事によって培われた信仰であるという以外実質的な関連などない」
 京極堂の声が地下洞に響き渡る。冷淡で、容赦のない、残酷な声が教祖を切り裂く。
「神風は吹かないのだ。アキコさん、実の無い神など捨てるのです。
 貴女は最悪の男に誑かされただけなのだ」

もう、やめて、
もうやめてくれ京極堂。
私は我が身までもが苛烈な言葉で切り刻まれるように感じ、悲鳴をあげる。
身寄りの無い少女を騙して教祖に祭り上げ私利を得ていた詐欺師の悪事が露になっても、
神罰にみせかけて横暴な外国人を暗殺した教団の仕掛けが暴かれても、
それは彼女の「認識」の誤りを正すだけの事なのだ。
純粋に神を慕う娘の魂に傷をつける事はない。
けれど、あの男の言葉は。

京極堂はあの男の、自分の師であった男の刻印を、根こそぎ消し去りたいのだろう。
けれど、そんな事は不可能なのだ。同じくあの男の餌食となった私には分かる。
あの男が獲物達に埋め込んだ言葉はまるで、幼い頃に与えられた言葉の如く
深く柔らかい部分に沈みこみ、後から抉り出す事は容易な事ではない。

これ以上このひとを追い詰めて、
これ以上をこの人を打ちのめして、
何の得る事があるというのだ。
深い深い海の底に眠るこのひとの神をそっとしてあげてくれ。
さもなければこのひとは──


啜り泣くような呻き声が止む。
地底が静まり返る。
聞こえるのは、洞窟にずっと響き続けている幽かな唸り。
遠い耳鳴りのような遠い地鳴りのような遠い海鳴りの様な。
轟々と。轟々と。

その濁った静寂の中、がらん、と不快な音が響く。
小さな神像が教祖の腕から滑り落ち、床の上で不様に回転して周囲の暗がりの中に失せた。

そして。

私の傍らで、これまで聞いた事のない声がした。

「私はクトゥルの巫女シルス」

──「声」 作・ナルシア



シルス


 轟々と。


 島に寄せて返す波が、さざめく。
 其れを圧して響くのは歌だ。洞窟に炎の明かりと影が大きく踊って、歌が朗々と響いて。
 薬酒で鈍った心に、優しい背高の研究員の顔がちらと思い浮かんで、つい微笑った。
 暖かい気持ちが湧いて、悲しくなった。彼が好きだったから。
 井戸は見せてあげられたけれど、此処まで連れて来ることは出来なかった。
 此の儀式の秘密は、明かせない。いまだ幼い彼女だったが、神と交感する者の自覚は既に有った。


 汝は、メデリプではないメデリプを訪れる最後の者となるだろう。
 巫女が去って後、此処は祭祀堂(ウレンガン)では無くなるのだから。


 船に乗る前に 肌に美しい円模様を連ねた巫女からはそう聞かされていた。
 遠い遠い大きな街に行く事はもう決まって居たから、彼女の肌を彩る筈だった大切な誓いは見えないところに刻まれる事になった。そう聞いて、母親はとても安心したようだった。普通の娘の様に恋をして、楽しく過ごして欲しい、というのが母の願いだったから。
 そのほっとした顔を見てしまったら、巫女が二人きりのときに彼女に告げた事は云えなくなった。
 巫女は神の花嫁。神は、常に汝と共に在る。
 此れよりは、島では無く、汝が祭祀堂になるのだ。
 選ばれし巫女、人の目には視えぬが消える事も無いしるしを与えよう。 
 力強き者の御社は汝の内に築かれる。
 祈れ。請え。
 さすれば神は降臨する。汝が許に。


 その心強い約束の記憶が、弱った意志を支えてくれた。
 夢見ていた心持ちで、彼女は薄目を開き―――すぐ傍から聞こえていた傷ついた獣の唸り声が、自分の喉から洩れているのだと気付いた。
 一本一歩、乾いた小枝でも折るようにして神の奇跡を否定してみせた男の影は、揺るがずに其処に立っている。ああ、それでは此れは現実なのだ。夢ではなく。悪夢でもなく。足元の大地さえ、男の不敬に震えた様だった。
 安堵もつかの間、黒々とした自失と絶望が胸を刺した。果てなく沈む。沈んでいく。酷い眩暈に襲われて目を瞑った途端に―――


 くらり、と、世界と意識が覆った。


 目を瞑ったままぐいと覗いた青く青く澄んだ海の底、麗しい奥津城が在った。波間に光が作る縞模様に、紺碧の小魚が踊る。海亀が長い鰭ではばたく。光眩しい故郷に、どれほど帰りたかったか。
 歌が、耳の中いっぱいに蘇る。
 懐かしい祝福と呪い―――其れが、彼女の中に残されたしるしだった。 


「私はクトゥルの巫女シルス」


 晴れやかに宣言する。もう二度と忘れることがないように。
 神は彼女の内に居たのだ。儀式を終えて、島を離れた彼の日からずっと。もう何も怖くは無い。


 巫女は目を上げて、自分に向かって踏み出しかけている相手を見た。
 表情は無い。双眸だけが、尋常ならざる強さで輝いている。
 関口が息を呑み、木場は怖れていた事が起きかけているのを悟った。
 娘の変化に気づいたのは、小説家だけではなかった。
「これは、これは」
 言葉の合間に不規則に息を吸い込んだ音が喉奥でくぐもって、直ぐに神経質に引き攣れる嗤いに変わった。
 中禅寺が睨み付けると、詐欺師もぐいと睨み返した。
「貴方の負けですよ。潔く認めたらどうですか。彼女は諦めない。絶対に。此の数年を共に過ごした私が云うのですから本当ですよ」
 男は周囲を嬲るように視線を一巡させる。
 刑事の頬がびりりと震えた。
「好い加減に黙りやがれ。べらっべら女の腐ったみてェに喋りやがって」
 大音声の一喝に鳥口が仰け反ったが、怒鳴られた男は何の反応も返さずに瞬いた。
「無理に心を裂こうとすれば狂ってしまいます。そういう実験をしていた部隊も陸軍には有ったと、噂に聞いた事が有る。人の心を惑わせ操る業にかけては、貴方も相当の手練れの様だが―――」
 榎木津が無造作に腕を伸ばし、喋り続ける男の襟首を掴んだ。引き寄せて、剣呑に光る眼で相手を射竦める。
「五月蠅いな。あんたの出番はとうに終わってるんだよ」
「彼女が蛸に魅入られているのは私の所為では無いですよ。何せ生まれながらの神の僕だそうですからね」
 中禅寺がもの問いたげにしたが、声を出したのは榎木津だった。
「神なんかじゃないだろ」
 探偵はそう断じて、巫女を振り返る。
 アキコは黙していた。彼女を眩く包んでいた熱情の光輝は消え、浅黒い肌は闇に溶け込んでいる。若く豊かな表情を消し去って、魂の色さえ異なる人間のように佇む彼女を、榎木津はじれったそうに見遣った。
「其れは、さっきの黒いやつか。だが、そいつも、其処に転がってるのも―――神なんかじゃない。違うったら違う。僕が」
「てめェもすっこんでろこのクソ馬鹿!」
 木場が堪らず叫ぶと、中禅寺も動いた。


「アキコさん、彼の男の嘘に殉じる必要は無いのです。貴女に罪は無い。後の事は、榎木津元子爵にお任せれすば善い」


 眼を伏せたままの娘の口元を、冷淡な微笑が通り過ぎた。
 すっと上げた顔を、そのまま仰け反らせる。腕が大きく開かれ、唇が息を吸い込み、そうして紡がれたのは異国の言葉だ。高く澄んで、天井に響き渡るその祈り――としか思えなかった――を理解できる者は此処には居ない。そう木場が思ったのは、しかし、間違いだった。
「―――」
 探偵に胸倉を掴まれたままの石地が、短く言葉を発した。巫女の言葉よりもはるかに日本語めいていたが、同じ言葉だ。眼鏡を光らせて、薄っぺらい嘲笑を向ける彼を、巫女は初めて周囲に生きた人間を見つけたかのように見返した。睫毛の陰で煙る黒檀の瞳を、炯とした光が過る。
 関口は、信じられない思いで其れを見た。アキコの眼の奥から何か違う者の眼が覗いたような、そんな風に見えたのだ。
 尚も言葉を重ねる石地から、アキコは視線を逸らさないまま、二言三言、静かに呟いた。
 息をするのも憚られる静寂の中で―――
 石地が突然喘ぎ、血を吐いた。
 幾度も咳き込んで、驚愕と苦痛に凍った眼を宙に彷徨わせる。前かがみになりながら、それでも巫女を睨み付けた。不明瞭な声で何か云い掛けて、ぼとぼとと滴る血とともに吐き出したのは、小さな塊だった。壇上に転がって、ぬめりを帯びて光を弾いた特徴的な形状から、舌の半分と知れた。
 壇上に居た人々の間から、うわっと恐怖に戦く声が上がって、幾人かがたまらず逃げ出した。息を詰まらせて血塗れで悶える石地を押さえ付ける榎木津、そして駆け寄った木場の顔や服に黒い飛沫が飛んだ。
「京極堂!」
「師匠、今のは一体―――」
 濃い生血の臭いが鼻を突く光景から顔を上げた陰陽師が、巫女に、剃刀の如き視線を向ける。
「何をしました」
「裏切り者は去ねと申した」
 アキコは明晰な日本語で応え、苦悶している元司祭を見下ろした。黒い刃のように研ぎ澄まされて美しい顔だった。
「神に背く者には死を。我が神に帰依すると汝が初めて申し出た時に約定を交わしたでは無いか。覚えて居らぬは汝が罪に非ず。我が歌は深みの秘め歌。心に留めて覚えて居る事は誰にも出来ぬ」
 その言葉の意味が直ぐに理解できた者は居なかった。
 中禅寺以外の人間は、誰も動けない。
「生まれながらの神の僕というのは真実ですか、アキコさん」
「それは我が名では無い」
 澄んだ声が笑った。さきと変わらぬ清らかさを保ちながら、滲むのは侮蔑だ。
「神の言葉を伝える者は、人ならぬ身に化生せねばならぬ事が有る。確かに僕はそう云った。しかし貴女は―――」
「私はクトゥルの巫女。神に娶られる者は元より人ではない。其れが条件だ」
 高らかな嗤い声を残して、娘は身を翻す。金色の薄物が一瞬煌いて―――影に消えた。
 軽やかな足音が遠ざかっていく。
──「シルス」 作・狛犬





2004年9月初出・2005年1月編集



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