「竜宮の呼び声」 憑き物落とし篇・前編   


「謎篇」で大勢の作者の皆さんが生み出した数々の神秘的な謎、
嘲笑う邪神の影を端から落とす事が出来るのか京極堂!
かなり無理矢理なのもありますが、全て剛腕女将ナルシアの責任です。


深海の使者

「犯罪」
 叫ぶような澄んだ声が響く。
「犯罪だなんて、わたくし達は何も疚しい事はしておりません」
 木場は思わず、宥めるような声を教祖にかける。
「だがよ、ここの信者がもう二人も死んで」
 小柄な教祖は、大柄な刑事を振仰いだ。
「大変悲しい事です。その出来事を聞いて、私も大変胸が痛みました。
お二人を正しく導く事が出来なかったのは、私共にも落ち度があったのです」
 落ち度を認めるのか。
「人間ごときの力で望むままにクトウルの神を御すなど、とうてい適わぬ事であるのに。
その慢心の恐ろしさを伝えきれなかった私の罪です。私はその責めを負いましょう」
 そんな事を──警察が責めている訳ではない。
「けれど、お二人の死に関して、教団自身に責任があると証明おできになるのですか」
 真っすぐな視線に、木場は狼狽する。毅然とした物言いに、中禅寺が頷く。
「彼女の言う通りだ旦那、取り敢えず証拠がない。
あんたがこの男を引っ張っていけるのはせいぜい薬事法違反くらいかな」
「や、薬事法?」
 謎の宗教団体と、どういう関係があるというのだ。
「薬効効果の証明されていない食品などを効果が在ると言って公に宣伝すると、薬事法に違反するだろう」
「効果は間違い無くあります、竜宮水で多くの方が癒された事は事実です」
 中禅寺は取りつく島のない調子で言った。
「人又は動物の疾病の診断、治療又は予防に使用されること、並びに身体の構造又は機能に影響を及ぼすことが目的とされているものであって器械器具でないもの、が医薬品と規定されているのです。竜宮水なるものの効能効果が事実であるならこの医薬品に該当します。あなたがたは無承認無許可医薬品を販売したという罪に問われる」
 ほとんど言い掛かりではある。しかし。
「とりあえずそれで連行して教団事務所の捜索をするのが一番早いだろうな」
「捜索して何が出る」
「さあ、それはやってみないと──」
 自分については何事を言われても全く意に介さなかった教祖が、動揺する。
「そんな事はおやめください、石地さんは立派な方です、私の大事な恩人の方です」
「アキコさん、貴女はあの男に騙されているのですよ」
 平然と無礼を口にする男に詰め寄らんばかりにして、教祖は『恩人』の弁護を始めた。
「そんな──。石地さんは身寄りのない私を心配してずっと今日まで支えて下さったのです。3年前に正式にクトゥルの神に帰依してからは、私財も投げ打って教団設立のために力を尽して下さったのです。『竜宮水』の神秘の力によってクトゥルの神の御力を世間の人に知らしめようと思い付かれたのも石地さんで、そのおかげで私達の神は多くの信者の方々を集める事ができるようになりました」
「彼は貴女を飾り物の教祖として利用し、私利を得ていただけではありませんか」
「違います、違います。貴方は何も御存知ないのです、あの方は父の友人だった方です。
この世界でただ一人、私が信頼できる方です」

「嘘ですよ」

「え?」
「お父君の御友人だった、というのはこの男のでっち上げです。
面識くらいは、まあ、実際あったのでしょうが」
 虚を突かれて、教祖の視線が一瞬海神の司祭に走る。
しかし男達の壁の生む影は濃く、『恩人』の表情はその位置からは伺えない。
「でも──石地さんは──『ルリヱの井』の場所を御存知でした。
海神の恵みは島人全てが受ける事が出来ますが、
井の場所は祖国でも王族か神官の血筋の者達しか知らぬ秘密です。
よほど信頼されていなければ外国人に明かされる事ではありません」
「『ルリヱの井』と言うのは、貴女方の所謂『竜宮水』が沸き出している場所の事ですね」
「はい」
 中禅寺は意表をつくような穏やかさで言った。

「ルリヱの井の場所を明かしたのは、貴女ですよ」
「わたくし?」
 大きな黒い瞳が驚きで見開かれる。
「でもわたくしは石地さんがルリヱの井の話を持ち出すまでは、
その存在をほとんど思い出す事もなかったのですよ。
勿論日本に来てから誰にも──三ツ矢の家の方々にすら話した覚えはありませんし、
祖国を離れる前にしてもわたくしはまだほんの子供でしたから」
「その幼い子供が心から信頼する外国人と秘密を分かち合ったのです」
「外国人?」
 本当に、彼女には心当たりが無い様子に見える。
「外国人と言う言い方は正しくありませんでしたね。当時貴女の祖国は日本の領土だったのですから、貴女も彼も同じ日本人だった事になる。ただ、彼は内地──東京から来たのです。パラオ熱帯研究所職員、先程話に出た僕達に石地氏の情報を提供してくれた弐ノ宮博士です。御記憶にありませんか」
「にのみや──」
「弐ノ宮珠希研究員です」
「たまき」
 は、っと教祖の面に光が射した。
「思い出されたのですね」
 穏やかな表情で頷くと、中禅寺は視線を周囲に巡らした。
「昭和十四年、パラオ熱帯研究所職員中最も心優しい研究員が、海洋生物の分布調査に渡った島で生命力と知的好奇心に満ち溢れた小さな女の子と知り合いました。
彼らは小さな島々を共に調査に廻り、少女は友情の誓いとして一族最大の秘密を彼に教えたのです」


透き通る水。
透き通る水。

透き通った水越しに鮮やかな緑色に染まる砂地。
透き通った青い水面に浮かぶ緑の木々を載せた島々、
波に穿たれ不気味な咆哮を轟かす洞窟の数々。
浅い珊瑚礁の海を渡る小舟から身を乗り出し、
澄み切った水中を覗き込む大小二つの影。

「そうでした、思い出しましたわ。
わたくしはタマキにルリヱの井の在り処を教え、
二人で何度もこっそりとそこを訪れました。
タマキは本当に驚き喜んでくれました」
 教祖の張り詰めた表情がふわりと緩む。
はっとするほど──あどけない。
神々しい程神秘的で気丈な姿を見せてはいるが、
この娘はまだほんの少女なのだ、と木場は胸を突かれる思いがした。
と、それまで眉を顰めて娘を見ていた榎木津がいきなり奇声を発し、
木場の一瞬の感傷を吹き飛ばす。
「なんだ?その馬鹿っ長いヒモみたいなのは。変梃な形だなあ。生きているの?」
「タマキはルリヱからの使者だと」
 言いかけて、娘は目を丸くして口出しをした男の整った顔を見上げる。
どうして自分の思い出していた光景が分かるのか。
頓狂な男の事は殊更説明しないまま、中禅寺が彼女に確認する。
「あなたの一族が『ルリヱの井』と呼ぶその洞窟に囲まれた泉のある入り江で、
あなたと弐ノ宮研究員は細長い帯のような形をした変わった生き物を目撃したのですね」
「はい、後になってあれこそは母や古老達の物語るクトウルの神の眷属であったのだと得心しました」
 彼女は幼い日に入り江で見た銀色の長い長い生きた帯の事を語った。
それは此の世ならぬ畏怖を覚えると同時に恍惚に我を忘れる光景であった。
自分達が目にしたモノは、蛸に似た貌の神の青い斑の煌めく腕の一部であったのだ、と彼女は確信を込めて言った。それは彼女に衝撃を与えた神秘体験であったに違いない。
木場は友人の元精神科医が弄ぶ言葉を思い出す。
ヌミ──ヌミノースとか言ったか。

「ルリヱからの、と弐ノ宮博士は言ったのですか」
「はい、──いえ、タマキはまだあまりわたくしたちの言葉に堪能ではなくて、わたくしも尋常小学校に入って日本語を正式に習う前でしたからおたがいの会話は殆どカタコトで」
 埋もれていた記憶を手繰り寄せ手繰り寄せ、娘が語る。
「その姿が見えなくなった時、タマキが自分の国の言葉で呟いたのでした。
わたくしには分からない言葉だったので意味を問うと、一生懸命考えて」
 褐色の片頬に揃えた指を当て、ゆっくりと言葉を探す。
「深い深い海の底の恐ろしい生き物の形をした神様の住むお城、といったような説明をしてくれたのでしたわ。それでそのお城の形はとっても不思議で、人間の手では表す事ができない形だと」
「──わたくしは驚きました。わたくしたちの国の事はまだよく知らない遠い国の人のタマキの語った事が、わたくしの母や乳母達がわたくしに日頃聞かせているクトウルの神の海底の都、ルリヱの事そのものだったからです。
遠いタマキの国にもルリヱの言い伝えはあるのだ、そしてなによりこの洞窟の泉が深いルリヱから湧き出してわたくしたちに恵みを齎すというのは真実だったのだ、と幼かったわたくしは感激の思いで打ち震えました」
「弐ノ宮さんは自分の口にした言葉の意味を貴女にわかるように説明なさったのですね。それを幼い貴女は『ルリヱからの使者』という意味に理解した」
「タマキは、そう言いました」
「それが、彼はそうは言っていないのです」
 きっ、と教祖の表情が強ばる。
「そんなはずはありません」
 黒衣の男はあくまで穏やかに語りかける。
「アキコさん、先程の仰り方からすると貴女は洞窟でその不思議な生き物の姿を目にするまではクトゥルの神の話を心から信じていた訳ではありませんね」
 年若い教祖は視線を落とした。
「半信半疑と言った所でしょうか──わたくしが物心ついた頃にはもう島でも表立ってクトゥルの神を祭る人も居りませんでしたし。尋常小学校に通うようになった年上の子供達はそういった事は古臭い迷信だ、と言うようになって──でも」
 彼女は見た。
地上の物とは明らかに異なる美しい異形を。
そして年上の友人である若い学者は、あれを海の神の都から来たと言った。
だから海神は存在する。
彼女はそう確信した。
「そう言っていないんなら、タマちゃんは本当は何て言ったんだ?」
「アキコさんは知っていますよ。今の貴女ならその時弐ノ宮さんが日本語で何と言ったのか判る筈です」
 探偵の明るい茶色の瞳が無邪気な期待を込めて彼女の方を向く。
榎木津の能力では記憶の中の光景は見えても音声までは知り得ないのだ。
「お、覚えておりませんわ。昔の事ですし──」
「いや、貴女は覚えています。ただ改めてその事を考えてみた事がないだけで、その言葉は常に貴女の無意識に存在していたはずだ。その言葉が貴女にとって特別な言葉になったという事は今では誰にでも判ります」
 誰にでも?
「そう難しい事ではありません、思い出してみて下さい」
 娘は目を閉じた。
真剣に十四年前の一言を思い出そうとする。
瞼が金粉を佩いたようにつややかだ。
「──り」
 やがて厚めの唇が笑むように横に開かれる。
「リュウグウノツカイ」
 ぱっと瞼の下から黒い瞳が現れる。
「そうです、あの生き物を見てタマキは『竜宮の使い』と言ったのです」


「一緒じゃねぇか!」
 木場は思わず突っ込んでしまう。
「一緒じゃないだろう旦那。竜宮とルリヱが同じものだ、とするのはアキコさんの見解であって、弐ノ宮さんはルリヱの事なんか知りもしなかったのだ。彼は少ない単語でなんとか『竜宮』のイメージを幼女に説明しようと苦心したのだよ」

 深い深い海の底の。
『恐ろしい生き物の形をした神様』というのは『龍』、
『お城』とは『宮』を表そうとしたのだろう。

「他での言い伝えを知らない者が同じ描写をするという事は、則ちそれが現実に存在する証拠になるのではありませんか?」
「同じ描写と言いますと」
 澄まして聞き返す男に教祖は厳かに言い募る。
「わたくしの大伯母から伝えられた話では、ルリヱは地上のどの都とも異なり人間がその形を表現する事は不可能とされています」
 クトゥルが眠るルルイエの神殿は『非ユークリッド式の有り得ざる角度を以って聳え立つ』と描写されている──と、以前中禅寺も語っていた。
偶々海面に浮上した其れを見た者が、正気を失って死ぬという話さえ有るのだと。
「ルリヱの話を知らないはずのタマキは竜宮の事を『人間の手では表す事ができない形』だと言いました。この表現上の類似はこの二つの城が同じ次元の存在である事を示唆しているのだと──わたくしはそう理解しております」
「あのう、すいません」
 緊張が解けてきたらしい鳥口が手を挙げた。
「『竜宮』ってそんな変梃な形なんすかぁ?
僕なんか反り返った鳥居のあるド派手な中国の邸みたいなイメージなんすけど」
 黒い男は片目で、ある意味剛胆な青年を見る。
「鳥口君、君『浦島太郎』の歌はちゃんと覚えているかい」
「いやだな師匠、いくら僕でもそのくらい──って、え、え、まさか」
 一時限目に早弁している生徒に向かう教師の様な渋面で中禅寺が命じた。
「歌ってみたまえ」
 鳥口は困惑して周囲を見渡す。
壇上には揺らめく松明の炎を受けて濃い陰を作る屈強な男達の一団とその間に身を隠すように寄り添う僧衣の男、その傍らで面白そうにこっちを見ている探偵、食い付きそうな形相の刑事、憔悴しきった作家、恐ろしく渋い顔をした古本屋、そして真摯な表情の美しい教祖──全員の視線が鳥口の上に注がれている。
鳥口は覚悟を固めて大口を開けた。

 むかしむかしうらしまは
 たすけたカメにつれられて

ヤケになっているのだろう。
小学生のような大声である。

 りゅうぐうじょうにきてみれば
 えにもかけな

「あ」

 絵にも描けない美しさ

「まさか」

「そのまさかだったのさ。弐ノ宮さんは別に神の都の構造上の特徴を述べていた訳ではない、幼い女の子に自国のお伽噺で語られる『竜宮』を教えてあげたかっただけだった。しかしアキコさんはその我々には馴染み深いレトリックを祖国の神の都と結び付けて信じてしまった」
「そんな」
 そんな冗談のような勘違いで。
思わず木場は不審を露にする。
「──信じるか普通?いくらちびっこいガキだからって、いくら親から聞いてた言い伝えに似てるからって、現地の言葉もまだろくに喋れない外人の言葉をそのまんま」
「他の人の言葉だったらそこまではいかなかっただろうね」
「ニノミヤってのはそんなに頼もしい野郎なのか?」
 中禅寺は顔半分で笑った。
「そういう意味じゃあないよ。アキコさんが弐ノ宮研究員の言葉を信じたのは、彼が海洋生物研究の専門家だったからさ。幼い子供でも一緒に活動していれば体系的な知識に裏付けられた発言は真実だと判るし、その知識の持主を尊敬する。その彼がその不思議な生き物の事を知っていれば、それは現実に存在するものだという事になる」
「存在するのか!何なんだそのるーりぃのおつかいとかいうひらひらは。
 面白いなあ、僕も見たい」
 探偵はすっかり夢中になっている。
「滅多に見られるものじゃないよ。特に生きている姿は」
「ますます見たいじゃないかッ!マスヤマに命じて是非とも捕まえさせよう。どこに居る?」
「そうだな、陽光の届かぬ深い深い海の底」

 それでは話が堂々回りしているのではないか。

「じゃあ本当に?」
 苦行を終えた鳥口が大口を開けたままで聞く。
「そうだよ、ルリヱの井は本当に深海につながっていたのだ。
その生き物はそこから長い海中の廻廊を昇って来て光の射す入り江に姿を表した。パラオ諸島は珊瑚礁の群島だ。環礁に囲まれた島々の間の海は浅いがカヤンベサウの一族の治めていたペリリュー島の西側では珊瑚礁が終って急激な深みが始まっている。島のごく近くでも一気に数十メートルもの深さに達するポイントがいくつもあるそうだよ」
 中禅寺が漸く何時もの水を流すような語りに入る。
「弐ノ宮研究員は小さな王女に教わった神秘の洞窟で海洋研究史上画期的な大発見をしたのだ。彼はルリヱの水が湧く周辺に巨大に生育した海洋生物が発生する事を地元民の話から聞き知って、以前から多大な興味を感じていた。彼の本来の研究テーマは食糧を本土に供給するための養殖技術に関するものだったからね。研究所では下っ端だった彼は他の研究員の手伝いも兼ねて群島周辺の海洋生物叢のマップ作りに小さな島を廻っていたそうだ。
そんな弐ノ宮研究員に天から、否、海の底から贈られた天然の奇跡がルリヱの井だ。
彼はついに奇跡の秘密を突き止めたのだよ──
それは竜宮の使いが教えてくれた」
「その帯みたいな生き物が?生き物だろそれ?」
「魚だよ、深海魚だ」
「さかな──」
 掠れた声で教祖が呟く。
「太刀魚を巨大にしたような細長い魚です。体長8メートルにも成ると言われているが、完全な姿ではなかなかお目にかかれる事はない」
 帯の様な魚。
巨大な蛸に似た生物の長い触手の一部などではなかったのだ。
「日本近海でも時々定置網にかかったり、地震の後浜辺に打ち上げられているのが発見されたりもしているが、大抵すぐ死んでしまって、生きて泳いでいる姿というのはなかなか見られない。1000メートル近い深海から急に水圧の低いところに上がってくるのだから身体への負担が大きいのだろうね。詳しい生態等はまだ殆ど知られていないのだそうだ。お二人は素晴しい幸運に行き会ったのです」
「だからなんていうんだそれ」
 榎木津は子供の様に目を輝かせている。
「さっき言ったじゃないか」
「聞いてナイ!」
「だから、」

──リュウグウノツカイ

それは、深い海の底に棲む魚の名である。

「弐ノ宮さんは深海魚『リュウグウノツカイ』が日本語でどういう意味なのかアキコさんに一生懸命説明しようとしたのだ。深い海から来た珍しい生き物だと言う事を彼女に忘れないでいて欲しかったのだろう。彼はこの珍しい魚を見た事によって確信したのだよ──ルリヱの井は深海からの水の沸き出し口だと」

──「深海の使者」 作・ナルシア


竜宮水


透き通る水。
透き通る水。
膨大な量の透き通る水。
しかし、透き通って見える水は全ての光を透過している訳では無い。
その証拠に、海は青い。
僅かに潜る度に僅かずつ光は失われて行く。
その証拠に、海は──暗い。

「水深200メートルを超えるとそこは仄暗い青の世界だ。
太陽光線は吸収され、植物プランクトンは光合成を行う事ができない。
表層から降り積もる有機物は消費される事なく分解され、豊富な無機栄養塩と変化する。
普通には摂取しにくい微量元素やミネラル成分が多く含まれるのでその深度の海水は身体に良いと言う学者もいるね。効果の程は未だ定かではないにせよ、健康食品として売り出せば人気を拍す事間違いなしだ」
「じゃあ竜宮水というのは」 
 時代錯誤な和服の陰陽師は明快な口調で説明する。
「ああ。日本での訳語はまだないようだが、海外の研究者の間ではdeep sea waterと呼ばれている特殊な成分を含む深い層の海水の事だ。弐ノ宮博士などは『深層水』といった名称を提案しているそうだが、ここではとりあえず『深海水』と呼んでおこうか」
「特殊といったって海の水なんでしょう?海はみんなつながっているから混じってしまってどこでも同じなんじゃ?」
 誰もが持つ疑問を代表して鳥口が聞く。
「水は層になるのさ。慌て者の君など下宿の沸かし立ての風呂に飛び込んだら底が水だった、なんて目にあった事があるのじゃないのかい」
「あれって底だけ冷たいんですよねえ。びっくりして飛び上がっちまいますよ」
 そんな目にあった事があるらしい。
「なぜそんな現象がおきるのか知っているかい」
「確か──冷たい水は重いんでしょう?沸かして熱くなった湯は軽いから表面に浮かんで──」
 ああ、という顔になって鳥口が口調を変える。
「海の水も底が冷たいんですか?」
「そう、海の表面は太陽光の届く200メートルくらいは暖かい。
その下の陽光の届かない部分になると、北極南極で冷やされた重い水がいくつかの層を作ってそれぞれの方向に流れている」
「へえっ、海って上と下では流れる方向が違うんですか!」
「そうなんだ。例えば日本の周辺で言えば、我々に馴染み深い黒潮と呼ばれる日本海流や千島海流といった表層の流れとは全く別に、オホーツクから南西へ進んでフィリピンの東あたりで北上し、日本にぶつかる北大平洋中層流という深海の海流があるのだそうだ。大洋では水深2000メートルくらいを流れる海流も、陸に近付くと傾斜に沿って表層近くまでに沸き上がってくる。
パラオから大量の水を輸送するのは今の時点ではコストがかかるから、現在販売されている竜宮水は実際にはアキコさんの故郷の『ルリヱの井』からではなくて、どこか日本の沿岸で沸き上がってきたこの中層水を汲み上げているのではないかな」
「土佐沖300メートルで汲み出しております」
 柔らかな声が別の方向から届く。
「『ルリヱの井』から直接くみ出した水ではありませんが、正真正銘同じ深海流の水。
深海の海流は二千年の時をかけて地球全体を巡っているのです。
海底の神の都を流れる、神聖な水ですよ」
 僅かに首を傾けて、黒い僧服の司祭は柔和な笑みを浮かべている。
「ただの塩水じゃねぇかッ!何が万病に効く神の水だ!」
 黒い影が立ち並ぶ方角に向かって、木場は叫ぶ。
「旦那、海水は実際に健康に善いのだよ。だいたい海水浴などと言いながら必死になって沖まで泳ぐなんて日本人だけじゃないか。なんのために海水『浴』と名付けたと思っているのだい。あれはもともと海水を肌に浴びる健康法だ。海水浴発祥の地の英国では、海の中まで馬の引く個室に入って海水に触れたそうだ。要するに湯治だよ。温泉成分の多くは海水にも含まれているのだしね、皮膚病関節病なら種類によっては効果覿面だ」
 海水浴に行って海に浸かろうともしない男が、いきり立つ刑事をたしなめる様にこんこんと海水の効能を説き始める。
「しかも竜宮水はミネラル分の多い深海水だ。外用にせよ飲食用にせよ、美容健康への効果は多少はあるのだろうね」
「塩水なんか辛くって飲めないぞ!僕は海の中で笑って死にそうになった事がある」
 何故海の中で笑うのだこの男は。木場は力が抜けそうになる。
「塩辛いのは海水重量の3パーセントを占める塩化ナトリウムだ。手間がかかるけれど専用のフィルターで塩化ナトリウムだけ濾過してしまえば辛くはなくなる。そのまま飲料に使えるよ。教団が竜宮真水として売っている高価なほうの水がたぶんそれだろう。
敦子が弐ノ宮博士に味見させて貰った脱塩深海水は、塩辛くはないけれどやっぱり唇がぴりぴりしたと言っていたな。ものすごく硬度の高いミネラルウォーターのようなものだから茶を淹れるのには向かない。日本茶にはやはり日本の軟水が一番だね」
 竜宮水の解説を聞いて来たのは中禅寺の妹、敦子だったようだ。不思議な出来事の科学的解明を扱う雑誌の記者であり、可憐な外見の敦子は、弐ノ宮博士と面談する人材としては成る程適任である。それにしても、日頃客に平然と出涸らし茶をすすめる男が水の相性などに気を使うなどとは到底思われない。
「なんか──本当にただの健康食品みたいですね。
 この人達って、怪しい神様を祭る謎の邪教集団じゃあなかったんすか?」
 鳥口が広場のほうを見下ろして言う。
この人達──の大半は既に最前の榎木津の登場の騒ぎの間に、地底の広場から姿を消していた。
残っているのは教祖を囲む教団の重要構成員らしき壇上の十名程と、呆然と壇下に蟠ったまま眼前で進行する事態に見入っている二十名余りのみだ。
「大黒様を飾ってある商家が皆インドの暗黒神マハー・カーラを信仰しているというものでもないだろう。さっきまで妙な呪文の大合唱をしていた百人は、御利益のある有り難いものならなんでもほいほい拝んでみるし、身体に良いと聞いたらどんな不味いものでも試しに一度は口にしてみるといった類いの、無害で善良な普通の人達がほとんどだったのだと思うよ。どこの神社のお祭だって、掛け声の意味を理解している寄せ子なんていないだろう。場所が場所だけに外部の者からは邪悪な雰囲気に見えるが、当人達にとっては実に楽しいイヴェントだったのだろうね」
 木場の脳裏に、何々が血圧に良い、何々が何の予防になる、と毎回違う食べ物をすすめる下宿の婆さんの顔が浮かんだ。そういえば普段は物静かな婆さんが、仏壇に向かうと時々変な裏声で夢中になって奇怪な経をあげていたりする。あれは、楽しい──のか。
けれど。本当にそれだけの事ならば、刑事はのこのここんな所まで来はしない。
「それじゃあ──なんで人死にが出るんだ。ちょっと珍しくて身体に良さげなだけの海水なんだろ、呪いも神罰もないのなら、なんで部屋の中で水を飲んで溺れるなんて奴が出るんだ」
──閉ざされた地上四階の一室で、どろりと磯臭い海水にまみれて。
苛立つ木場に、京極堂は至極当たり前といった様子で答える。
「だから、石地さんが黒幕だと言っているのです」

ふうっと黒い影が教団員の間で揺らいだ。
司祭が屈めていた躯を伸ばしたのだ。
榎木津が無言でその前に立ちはだかる。

──「竜宮水」作・ナルシア

猫目洞の客・解


洞窟のような地下壕の天井から滴り落ちる雫が、松明の灯にきらりきらりと輝く。
地下で渦巻いている湯気が凝結したのか、地上で降りしきっている雨がしみこんで来ているのか、この昏い地底では知る術がない。
木場は濡れた首筋を荒っぽく拭った。
首を滴り落ちる水が天井から落ちた雫なのか、自分の汗なのか、分からない。
もともと全身が真っ黒い衣装の男は、少しは濡れているのかいないのか判別がつかない。

「石地さんがアキコさんを教祖に祭り上げたのは、彼女の信奉する神様に帰依したからなどではありません。竜宮水を評判にして、ヒット商品にしたてあげたかっただけだ」
「彼女が南洋のお姫さんだからか。評判にはなるわな」
 木場は態と粗野に聞こえる様にがなる。
「確かに、皆エキセントリックなムードには弱いからね。そのうえ稀に見る美貌の持主だ、看板に健康的な美女を掲げて商品を売るイメージ戦略は別に珍しい事じゃない。特に竜宮水は一種の化粧品であり健康食品だから、自分もあんな美しさと健康を手に入れたい、と夢見る客は跡を絶たない」
 毎朝通勤電車の中から贔屓の女優がにっこり微笑む醤油の広告看板を眺めるのを秘かな楽しみにしている木場は秘かに赤面する。いや勿論、我が身が美貌を手に入れる事などを夢想している訳ではない。
「一見宗教団体のように見せかけてはいるが、まあまあ効能がなくもない水を手頃な価格で販売する一種の営利団体だから、その限りでは『るりゑ教団』には別に違法性はない。警視庁も調査してみて問題なし、としていたのだろう」
 そうだ。数学者の死を邪教と結び付けたのはただ一人──お潤の話を聞いた木場だけある。
「普通にしていてもそこそこ上手く運営される組織だが、石地さんはそんな穏当な商売をするためにこんな仰々しい仕掛けを作った訳じゃない。小数だが──旨味のある鴨を信者の中に探していたのさ。そして哀れな鴨は僕達が知る限りでも三人」
「三人」
「一人は旦那が猫目洞で合ったという青年」

──深い深い海の底に大きな大きな神殿が
──大きな大きな神殿には大きな大きな神様が

「おかしな事を口走るまでは普通に見えたのだろう」
「ああ」
 あの界隈でならば、どちらかといえばかなり様子の善い方だろう。
「おそらく猫目洞に入ったせいだよ」
「なんだそりゃ。確かにあの店ぁちっと普通じゃねえが、客の頭をおかしくしちまう程イカレテいる訳でもねぇぜ」
 とりあえず、木場は馴染みの店を庇ってみる。
「そんな事は言って無いよ、彼は何を飲んでいた?」
 グラスの中をゆぅらゆぅらと回る琥珀色の液体。
「酒場来て茶しか飲まねぇ朴念仁は手前くらいだ。酒に決まってんだろうが酒──」
 はっとして木場は言葉を止めた。
「酒、か?酒を飲んだからあいつは」
「おそらくね」
「その人、下戸だったんすか?」
 いや、違う。
「アルコールが引金ではあるがね」
「──薬か!」
 険しい表情で京極堂が頷く。
「おそらく。コカインのような麻薬類にアルコールを併用すると、中枢神経を極度に刺激して激しい興奮を引き起こす。その青年も、普通にしている限りでは影響の出ない程度の低い容量の薬物を服用していたのじゃあないかな。だがそこにアルコールが入ると、薬物と相乗効果を起こして」

 ふんぐるいむぐるうなふくとうるうるるゐゑうがふなぐるふたぐん。
 ふんぐるいむぐるうなふくとうるうるるゐゑうがふなぐるふたぐん!

若者の恍惚とした叫びが木場の耳に蘇る。
「こいつら──水だけじゃなくてヤクの売買組織なのか」
 木場は愕然として壇上の教団員達を見回す。
「そうではないだろう。おそらくその青年も意識して薬物を摂っていたのではないのだろう。
本人が気がつかない形で、知らず知らずのうちに飲んでいたのだよ」
「そんな、本人が気がつかないでヤクを──」
 飲んでいた?
「竜宮水の中にか!」

「ごく一部にだろうけれどね。竜宮水は高価なものではない。
個人が購入する水の量など知れているから、大した金儲けの道具にはならないように見える。
しかし、ごく小数だが熱狂的な竜宮水の愛用者がいるのだ。文字どおり湯水のごとく竜宮水を使う高級会員だ。彼らの存在のおかげで、るりゑ教団は莫大な利益を得ている」
 京極堂は黒い袂の袖についた雫を払った。銀色の粒がばらばらと散る。
「これ以降の話は確証がほとんどない。裏を取っている時間がなかったのだ。
大部分は僕の推測になるのだが──それで良ければ聞いてくれるかい」
 勿論、木場に異存は無い。

──「猫目洞の客・解」作・ナルシア


数学者の死・解


 黒衣の男は、傍らで身構える刑事に世間話でもしているような調子で語っている。
それでも良く通るその声は、その場に固唾を飲んで立ち尽くして居る者全員の耳に否応無く届く。

「石地さんは──特に教義に熱心で、しかも経済的に余裕の有る教団信者に目をつけた。彼らの竜宮真水にだけ、僅かな量の習慣性の有る薬物を混ぜたのだ。もともと心理的に竜宮水に依存していた彼らは、気付かぬ内に精神的身体的にも竜宮水に依存するようになってしまう。薬物による快感を神の水の力と錯覚した彼らは、その神秘の力を自らのものにしようと一層大量の竜宮水を購入するようになる」

 推測だ、と言う。証拠はない。
しかし中禅寺の操る言葉は、「真実」としての強い印象を聞く者に与える事が出来るのだ。
口先だけの、只の「言葉」であるにもかかわらず。
そして事実か否かは別として、黒衣の陰陽師が意図して生み出したその印象が、事態を大きく動かし居合わせた者達が思いもかけぬ結末を導きだす事を、鳥口はこれまでの数々の経験で知っている。

「一人は旦那の会った裕福そうな青年、一人は神楽坂に店を持つお潤さんの友人、そしてもう一人は気ままな一人暮らしの大学の教官。彼らはそれぞれの理由からるりゑの教義に強い関心を持っていた。しかも自由になる金がある。まさに理想のカモだね」
「それぞれの理由って、どんな?」
 雑誌記者の性で、鳥口は尋ねずにはいられない。
「例えば猫目洞の青年は容姿に理由があったのではないかな」
「容姿?妙な事を口走った以外は別に見かけにおかしな事はなかったぜ、
凄ぇ不細工でもぶったまげる二枚目でもどっちでもねぇ、そこの鳥口と、そんな変わらねえ感じの野郎だ」
 まあまあの男前、という含みであろうか。
「ちょっと目と目の間が離れていたのでしょう?」
「ああ?そういやちょいとロンパリ気味だが、そんな特別」
「本人は特別な事だと思っていたのだと思いますよ」
「秘かに気にしてたんすか?」
 君は気にしているのかい鳥口君、と中禅寺が軽く返す。
「そうじゃない。クトゥルの神を知ってからは、寧ろ誇っていたのじゃあないかな。
クトゥルの神の眷属で、人間と交わった古代の神の伝説が残っているのだ。
米国北部の、とある孤立した古い海辺の町が、そうした海から訪れた異質な種族との交流の痕跡を留めていたという噂がある。こういった話の好きな者達にとっては、聖地と言って良い程の有名な町だよ」
 マサチュセッツ州インスマウス──そんな町の名を、鳥口は聞いた事もない。
「その神の子孫と噂される人々の特徴的な容貌が」
 
目と目の間が離れた半人半魚──

「まさかそいつ」
「さあ──しかし彼は自分なら海神の力を誰よりも獲る事が可能だと思ったかもしれない」
 信じたのかも、しれない。自分は、特別なのだと。

「数学者の信念はもっと強固だ。ここで例の写本が登場する」
 鳥口達にとっても全ての発端は、倫敦堂山内氏が持ち込んだあの一冊の古い本だった。
「あの写本は──本物ならばだが、南洋とは程遠い中近東の砂漠の中で書かれた書物に由来している。どういった経路で入手したのかは謎だが、彼はかの書に現された公理を論証しようと研究に没頭した」
「公理」
「あの──数字を使わない数式──」
 実現可能とすればそれは──地上の「理」を、現存の「神」を否定し、空間と時間をありうべからざる形に捩じ曲げる技だ。
「初めは物好きな数学者の、数学的な遊びのつもりだったのだろうね。
ところが、最近巷で秘かに話題になっていた『るりゑ教団』の噂を耳にした彼は、愕然とした。
地理的に遥か離れた南大平洋に、細かな部分までかの写本の記述と合致する信仰が実在する事を、彼は知ったのだ。烈しく興味を掻き立てられた彼はるりゑ教団に入信し、更に深く教義に触れようとした。
自分は『写本』を持っている。
教団が古来よりの儀式を伝えているものならばそれを学び取って──その『式』を用いて求める『答え』を求めるつもりだったのだ」
「答えって何だ。答えを出してどうするってんだ」
 中禅寺は軽く眉間に皺を寄せて刑事を見る。
「『答え』を旦那に説明するのは難しいな。正常な世界では薄闇と混沌とした意識を通してのみその片鱗をかいま見られるようなものだ。止せばいいのにそういったものを乞い願って止まない厄介な人種が世の中には少なからず存在するのだよ。たとえ答えを獲たその瞬間に我が身を引き裂かれようと狂気に陥ろうと、非在の存在を目にする事が出来れば彼らにはそれで満足なのだろう」
 木場が苦しそうに唸る。
「理解らねえ。学者の考える事ってのはわからねえな」
「分らなくていいさ。どっちにしろ、今回その答えは求められなかった」
 黒衣の男は刑事から視線を外す。
「神楽坂の女性の理由は知らないが、『式』を求めて入信した数学者、古神の系譜を継ぐと信じる青年、彼らは自分こそはクトゥルの神の真の力を我がものにする事を夢みて、海神の力が宿ると言う触れ込みの竜宮水と竜宮真水を大量に購入し、生活に取り入れた。
石地は彼らの熱意に乗じて竜宮真水に僅かずつ薬物を添加し、彼らは知らず知らずのうちに竜宮水がなければ夜も昼も過ごせないようになっていった。やがて──」
 破局は訪れた。

「とんでもない事をおっしゃる。証拠はあるのですか、
 私共の竜宮水にそのような恐ろしい薬物が含まれていたという」
 非難している、という響きでは無い。微笑を含んだような言い方だ。
「証拠はありません」
 中禅寺は司祭の異議を平然と流す。
「薬物の検出というのは、何を探しだすか目的物質が分かっていないと不可能なのです。一般的な薬物ではないでしょう。第一分析を依頼しようにも、サンプルがない」
 遺体を覆っていた海水も肺に満ちた海水も──みな流れてしまった。
「皆様が私共の竜宮水をお求めになるのは水そのものの神秘の力を望まれるからです。
 深海には人知を越えた不思議がある」
 司祭は眼鏡の奥の目を細めてにっこりとする。
「これまでに発見されなかった強い薬理作用を持つ天然の物質が含まれている可能性は、もちろん皆無ではありませんが、私共のほうで意図的に熱心な信者の方々を陥れようなどとは、夢にも考えた事はございませんよ」
 その温和な笑顔を見て鳥口は──この人は本当に恐ろしい人なのだ、と漸く悟った。


「死亡していた数学者の部屋には、本来あるべきものがなくなっていた。
鳥口君、何だか覚えているかい」
 聞き慣れた中禅寺の教師然とした問いに、鳥口は平常心を取り戻す。
「あ、えー、古本の山ですね。故人が買い漁っていたはずの大量の珍しい数学書がなかったです」
 最初に事件が話題になった際、鳥口自身が調べてきた情報だ。
「古本が学者の変死と関係があるってのか?高価い古本狙いで殺されたとか」
 中禅寺は軽く頭を振る。
「彼の蔵書は彼が自分でどこかに移したのでしょう。売ったのなら僕らの仲間うちに知れますから、大学なり実家なりに運び出しただけだと思われます。問題なのは本を移動した理由です」
 本を移動した理由?
「そりゃ。あー、どこか他所で研究をするのに必要だったとか」
「床が抜けそうになったとか?」
「それは大層説得力のある理由だな」
 自身が膨大な書籍を所有する古書店主は、鳥口の答えに深く頷く。
「だが、この場合はそうではなかった。ただ、彼は」

「場所をつくりたかったんだよ」

 ──普通の理由だ。
「何の場所です?」
「水を置く場所」
 中禅寺は、ごくあっさりと言った。

「竜宮水に身も心も囚われてしまった数学者は、普段の飲食に竜宮真水を用いるだけでは飽き足らず、部屋一杯に水槽等を並べて竜宮水に囲まれた生活をしていたのだろう。風呂桶のようなものか魚を飼うような水槽か、形状までは分からないが、大量に水を溜めていたのだ。おそらくほとんどの時間は竜宮水に全身浸かって過ごしていたのだろう」
 二間のアパートの部屋を埋め尽くして並べられた水槽。水槽。水槽。
「深海水は採取した時はほとんど無菌で無臭の清潔な水だ。しかし、地上に汲み上げて長時間空気に晒して光を当てていれば海藻等も育ってくる。もともと栄養豊富な生物育成に適した水だ。磯臭さというのは結局海辺に生える海藻の匂いが主だからね、部屋はいつしか海の匂いに満ちていたろう。生まれ立ての蟹などはごく微細なプランクトンの姿をしている。汲み上げ時に紛れ込んだ甲殻類の幼生なども水槽の中で成長していただろう」
 ゆうらゆうら。
アパートの部屋の窓から、畳の上に並べられた水槽に光が射す。
うっとりと海水に身をまかせた数学者の顔が、黒緑の海藻の間から蒼白く覗く。
浅い海では見られない、脚の多い色素の薄い蟲がぞわぞわと白い躯を這う。

いや、そうではない。忌まわしい幻影を追い払うかのように木場が顔を拭う。
「遺体が発見された時、部屋に水槽なんざなかったし、扉は中から滅茶苦茶に釘を打たれて閉まっていた。水風呂に浸かっててうっかり溺れちまった、ってわけじゃねえんだな?」
「勿論です。水槽は彼が絶命する以前に持ち去られたのだ」
 部屋一杯の水槽が持ち去られるには──持ち去る人手が要る。
「神秘の水に浸り切って、人知れず陶酔の日々を送っていた数学者に、ある日、晴天の霹靂のような事件が起きました。別居中の妻が話し合いのために部屋を訪れると言いだしたのです。
彼は精神に異常を来たしていた訳では無い、ただ現実から逃避していただけだった。
逃れていた現実に引き戻され、彼は改めて部屋を見回した」
 部屋を埋め尽くす水槽水槽水槽──
「どう見ても、尋常な状態ではありません。妻が何と言うか、親族達に何と言い触らすか、勤め先の大学で噂にならないか。彼は恐ろしくなりました。
とりあえず、一時的に水槽を隠さなくてはならない。しかし、少量ずつ購入して多数の水槽に貯められた竜宮水はいまや膨大な量になっていた。一晩に彼一人で運び出すのは不可能です。そこで彼は水を供給してくれる石地さんに泣き付いた。妻にこの水槽に占領された部屋を見せる訳にはいかない。竜宮水を運び出すのを手伝ってくれ、と」
 中禅寺は、一団になって石地を囲んでいる逞しい男達に目を遣る。
「石地さんは腕力のある教団員を数人連れて、夜間アパートを訪れました。しかし、彼の部屋には水道設備はなく、流しは共同のものが廊下にあるだけです。とても人目につかないように短時間で大量の水を捨てる事は出来ない。しかも部屋は4階にあり、狭い階段を水で満たされた重い水槽を担いで降りる事も不可能だった。夜明けは刻々と迫っている。そこで石地さんは数学者の目の前で竜宮水を一気に処分してしまった」
「処分?」
「水槽の中身を全部、部屋の中にぶちまけたのです」
「あ」
 アパートの4階の部屋に出現した大量の海水。
「空の水槽を軽々と担いで、教団員達は階段を降りてゆきました。
残された数学者は」
 呆然と。ただただ呆然としてしまっただろう。

「石地にとって彼はもう価値がなくなっていたのです。彼にはもう竜宮水に注ぎ込む金がなかった。教義へののめりこみかたも常軌を逸してきはじめていましたし、薬物の影響も限界に来ている。信者が社会生活に破綻を来たしてしまっては教団が非難される。そろそろ手を切る潮時だった」
「部屋を滅茶苦茶にされた事以上に、命の支えだった大事な竜宮水をいっぺんに失ったショックで数学者は反狂乱になった事でしょう。石地は混乱している彼に最後に一杯の竜宮水を手渡して、部屋を出た」
「教団の連中が去ると、二度と入ってこられないように彼は夢中になって扉を内側から釘付けにした。
そして一人きりになると手元に残されたたった一杯の竜宮水に思う存分浸った。
朦朧とした意識の中で命の水を飲み続け、ついには肺一杯に海水を詰めて──彼は絶命した。
洗面器一杯の水ででも顔を上げる力を失った者は容易に溺死する」
 酔っぱらいが浅い水たまりに顔を突っ込んだまま溺死するような事故はよくある。
しかし。
「でも師匠、あの部屋には顔を突っ込む洗面器どころかコップ一つ転がってなかったんじゃ──誰か別に片付けた人がいるんすかねぇ?」
「いや、容器は現場にあったんだよ。ただ、それが水の入れ物にだとは誰も思わなかったのだ」
「でも現場にあったのは例の古本一冊──」
 鳥口は真剣に古ぼけた本で水を受ける方法を考える。
「あの写本は関係ないよ。里村君に聞いたのだが、死体の髪には海藻がからみついていたのだそうだ。それが最後の竜宮水を入れた容器だろう」
「海藻?」
「ワカメとか、あんなのですかぁ?」
 中禅寺は薄く苦笑した。
「そうだな、ちょっと違うが巨大なワカメとか昆布を想像してみたまえ。充分ナイロン袋の代用になりそうだろう。しかも乾燥すれば縮んで目立たなくなる」
「はあ。そういや乾燥ワカメを水に入れるとぶわっと膨らみますねえ」
「本当かよ、そりゃ」
 木場が裏がえったような声を出した。
「でけぇワカメに顔を突っ込んで──まあ、そりゃ、ええと、この際おいといてだな」
 どうせ現場検証は木場の担当ではないのだ。誰か酔狂な係官が試してくれるだろう。
「しかしよ。そんな、水を一袋渡しただけで都合良く死んでくれるもんか?」
 中禅寺が、淡々と──まさに、淡々とした調子で答える。
「別に死んでくれなくても良いのだよ。ここまでの目に会わされれば大概の人は目が覚めて、竜宮水を諦めて教団を離れるだろう。金にならない信者なんぞに用はない。彼らが破綻しようが社会復帰しようが──命を失おうが、そんな事はこの人にはどうでも良いのだ。たまたま二人ばかりはパニックのあまり水に顔を浸して溺死してしまったのだが、ほとんどの人は呆然としながらも生きてはいるのだろうね」
「ほとんどの」
 どれ程の被害者がいるのか知れない、と言う事か。
木場が固い刑事の貌になって、厨子を胸の前に抱え込んだ僧服の男を睨んだ。

──「数学者の死・解」作・ナルシア


関口



司祭の肩は小刻みに震えている。
脅えているのか。
怒りを堪えているのか。
否──笑っている。
男は、肩を震わせ、声を殺して笑っていた。
「いやあ──面白いお話でしたねえ」
 漸く息をつくと、男は顔を上げた。
「あまりに面白いものだからついつい聞き入ってしまいましたが、最後に登場した密室殺人のタネというのが乾燥ワカメとは。こんなに笑える話は久しぶりでしたよ」
 身体を震わせながら、海神の司祭は目を細めている。
「それで──貴方はそんな突拍子もない事を私が行ったと仰るのですか」
「そうです」
 京極堂がすまして答える。
「何度も伺って申し訳ないが──証拠は」
 歯切れの良い拝み屋に対して、司祭の声はあくまでも穏やかで優しい。
「毎回同じ答えで申し訳ないが、証拠はありません。
 ほとんどの部分が単なる僕の憶測です」
 司祭の笑みが大きくなる。
「そんな事で私を糾弾なさるおつもりですか?」
「いいえ」
 京極堂は、きっぱりと言い放つ。
「──貴方は僕の言う事など聞き流して下さってかまいません。
 僕は貴方に聞かせているつもりはない、
僕が手間をかけてこんな面倒な話を長々としているのは
──彼らに聞かせるためだ」

 京極堂は身体を回して、まっすぐに私を見た。

「分かったかい、関口君。数学者の死には海底の邪神も非ユークリッドも関係がない。
 あの部屋には現実に大量の海水が存在したのだ。彼は混濁した意識のまま水に顔を浸けて溺死した。物理的に不可能な事など何もなかった」
 友人の善く響く声が、私の暗く緑色に濁っていた意識の奥底に光を届かせる。

「この世には不思議な事など何もないのだよ」

 私は、頷いた。


──「関口」作・ナルシア


神殿の夢



そうなのだ。
中禅寺は探偵ではない。刑事でもない。
憑き物落としを請け負う拝み屋なのだ。
事件の真相とか、犯人の逮捕とか、そんな諸々は別にどうだって良い。
真実の暴露とか、犯罪の立証とか、そんな諸々を求めている訳ではない。
請われて、誰かに取り憑いた悪い憑き物を振るい落とす。
ただ、それだけの事なのだ。
それがこの黒尽くめの陰陽師の仕事だ。

そして憑き物は──落ちたのだろう。
それまで教団員達の間に挟まれてぼんやりと立ち尽くしていた関口が、ゆるゆると動く。
顔を挙げて、こちらに一歩足を踏み出す。
少し、よろける。

支えようと駆け寄った鳥口は、無精髭だらけの貧相な男が美しい教祖に向かって片手を差し伸ばすのを目の前で見て、あっけにとられた。
「シルス、いや、アキコ──さん。一緒に地上に戻ろう。ここは貴女の世界じゃない」
 弱々しいが、親身な声だ。
けれど、彼女は静かにかぶりを振る。
「いいえ、私の居場所はここにしかありません。
 貴方は地上で貴方を待つ方の処へお戻りになって下さい」
 中禅寺が静かに声を掛ける。
「貴女はついこの間雑誌に載ったばかりの関口君の作品、『雄弁な水死体』を読まれたのですね」

──僕はあの海底にあるものを見てからといふもの、
他のことが考えられなくなったのです──

「彼の文章にあった海底の神殿を見る水死者のイメージは、彼が海神に感応する能力が見せた幻影ではない。星辰の座が正しき位置に復して偉大なる古き神々が立ち上がり、彼に言葉を与えた訳ではなかった」

──歪んだ空間、暗がりに浮かぶ、今にも崩れ落ちんとする白い大理石。
そこに群がる深海魚達──

「あれは──数学者の死に関して、僕が余計な事を彼に聞かせてしまったせいなのです。関口君にはルルイエ、貴女方の言うルリヱに関する予備知識があった。室内で溺死した数学者の事件についても彼は知っていた」

 娘は淋しそうに頷く。
関口が、何か言いたげにしたまま、立ち尽くす。
いたたまれなくなって、鳥口は一心にとりなそうとする。
「でも、あのう──この教団ってのは結局、あの石地って男が金儲けのために作ったんですよね?アキコさんは何も知らずに利用されていただけなんでしょう?このひと、殺人とか詐欺とかに全然関係ないんですよねえ、だったら、だったらもうこんな所で教祖なんかしなくったっていいんですよね?ねえ、」

それでも。
教祖であった娘は鳥口達から顔を背け、
縋るような視線をそれまでの庇護者に向け、

そこに──これまで見た事もない男の姿を見た。

石地は、それまでにこやかに細めていた眼鏡の奥の目を見開き、
微笑むように端を持ち上げていた口を大きく開けていた。
目も口も、端が裂けているように思える程押し広げられている。
長い顔が切り裂かれて黒い裂け目が覗いているかのようだ。
薄い頭髪は露に濡れて広い額にぺたりと張り付いている。
柔らかく丸めた背、窄めていた肩すら形を変え、
上下を掴んで引き延ばされたようにだらりと丈が伸びている。

懐かしい司祭の姿は消し飛んだ。
優しい小父様の面影は跡形もなかった。
小娘を偽り手懐ける必要はもう無いのだ。
我慢して無能そうに振る舞う必要はもう無いのだ。
全ての黒幕──石地勘介は大勢の観客に向けて胸を張り、
向かい合う黒衣の男に負けぬ程確りと、愉快そうに語り始めた。
声だけは、以前と変わらず優しいのが無気味だった。

──「神殿の夢」 作・ナルシア




超音波



「まあ、いいでしょう。私もいい加減良き羊飼いの役は飽きてきていましたからね、
潮時と言うものでしょう」
 晴れ晴れとした、と言える程の言い様だ。
「中禅寺さん──でしたか。貴方は私があの底抜けのお人よしの弐ノ宮君からルリヱの井の場所を聞いた、と思っておられるようですね。生憎私はねえ、あんな間抜けな若僧から教わるまでもなく、とうから深海水の湧出口に気付いていたのですよ。陸の上からではなく、海の中でね」
 眼鏡の奥で見開かれた目が、黒い空洞となって遠い中空の一点を凝視する。
「『ソナー』というものは御存知かな。超音波を利用した水中探信儀ですよ。水中に超音波を放って、反射して帰ってくる波動を捕まえることで水中の物体の方向や距離を知ることができるものです」
 空ではない。かつての帝国海軍少佐の眼は暗く深い水の中を視ている。
「こいつにかかれば、海上からは見えない筈の潜水艦が、まる見えになってしまう。
大西洋ではドイツのUボートが、そして太平洋では日本海軍が精強を誇っていた潜水艦隊が、この新兵器を備えた連合軍の護衛艦の為に散々な目にあいましてねえ。次々と発見されては、手もなく沈められていった。
ああ──そこに海軍では俊英で鳴らした方がいらっしゃる。当然良く知っておいででしょう」
 ひらり、と酷く冷たい目の色が探偵に向けられる。榎木津中尉を見知っていたのだ。
直後、視線は何ごともなかったかのように再び彼方に戻される。
「まあ、ソナーに限らず海軍技術研究所の大きな研究の柱だったマグネトロン、こちらはレーダーの重要な中枢ですが、こういった技術も英米から大きく遅れをとっていた。彼我との技術力の差に恐怖すら感じながらも、それでも我が海軍技術研究所は捲まず撓まず積極的に研究を行っていた訳だが──或る事に気が付いたんですよ。
超音波は通常水中を真っすぐに進む。ところが海水の中には深くへ行くほど水温が高くなる温度逆転層と云うものがあって、それと通常の海水層との境界部分で、超音波は進む方向を変えてしまうと云うのです。つまり、これを利用して温度逆転層の下に潜り込めば、海上の敵がソナーで探っても、超音波は別の方向へ行ってしまうから発見しにくい。
そんな場所に潜水艦を配置することができれば、敵艦隊の不意を襲うことが可能でしょう」
 敵の超音波の目から身を隠す、天然の隠れ蓑といったものだろう。深い水の底で繰り広げられる人知れぬ技術の暗闘である。
「当時、マリアナ方面は決戦海域と考えられていましたから、その海域での海水の状態を探り、大型の『伊号』を含む潜水艦をひそませるに具合の良い海域を捜すために私達技術者が南洋まで派遣されていたのです。
ところが私達は──ペリリュー島西部の海底断崖附近で、更に不思議な海底流の動きを発見しました。私達の探していた軍事的に有用な逆転層とは異なるが、それはとても印象深い海流だった」
 石地はその謎の海底流に個人的に強い興味を覚え、記憶していた。
そして。
「パラオ熱帯研究所コロール撤収の際、監督官としてかり出された私は弐ノ宮君の報告書の中に面白い記述を見つけました。その当時は慌ただしかったのでそのままになってしまったが、戦後落ち着いた頃に私は彼の元を訪れて彼の興味を引いた、『海産物養殖に適した高栄養の清浄な低温水』について尋ねたのです。やはりそれは私の想像通り、深海の水が珊瑚礁の島に沿って沸き上がってきたものでした」
「最早軍事的な価値などはありませんが、deep sea waterは世界の研究者から次世代資源として注目されるようになっていた。なかなかのお宝じゃあありませんか。私は日本の海洋学の発展のために『ルリヱの井』のありかを教えるように、と彼に話しました。貧乏学者の彼のために資金援助ももちかけてみましたよ。しかしあの男は──馬鹿ですねえ」
 横一杯に引き延ばされた口は、笑顔というより暗い淵のようだ。
「王女と約束したのだから場所は明かせない、と言うのですよ。
小さな子供あいての約束じゃあないですか。その後、世の中全部がひっくり返ってしまって、日本は焦土と化した。天皇も神様から人間になってしまって、島の王族も滅びたというのに、そんな約束を守って今さら何の得があるというのです」
 それなのに、と石地は吐き捨てる様に言った。
「弐ノ宮は言うんですよ。王女を連れて来てくれたら、そして王女が話してかまわないと言うのだったら、その時にお教えします、と」
 鳥口は、自分とは一面識もない弐ノ宮をこの男が侮蔑する度に、酷く不快に感じた。
「私も間に受けた訳じゃあありませんよ、でも──まあ、カヤンベサウ家唯一の後継者の事も気にはなりましたので調べてみると、王女は敗戦後に失踪していた」
 一通の電報を受け取って。

「その時はそのまま話は立ち消えになりました。当時は私もいろいろと忙しかった。
しかし数年後、私の元に気になる噂が届きました」
 福岡の繁華街のはずれに、奇妙な神を奉じる不思議な異国の聖少女がいる。
「私はこっそりと様子を伺いに行きました。ごみごみとした汚らわしい焼跡の廃墟の中に、数十人の貧しげな者達が集って、そこは塵捨て場のようだった。その中に」
 質素な身なりの中から金色の光が溢れ出すように美しい、十六歳の少女が透き通る声で神を語っていたのだ。
空虚な表情で集った者達は、海の底の強大な神の壮大な物語を聞くうちに熱心に身体を乗り出し、瞳に輝きを取り戻し始め、弱々しい身体に力を取り戻すかのように見えた。
この屋根も満足にない破れ屋は、海神の教会であったのだ。
力に満ちた声で海底で眠る神を語り人々を魅了していたのはやはり。
アキコ・カヤンベサウその人であった。
この娘は使える──石地はそう思ったのだ。
「まさかその時は私もねえ、こんな胡散臭い格好をして、如何わしい宗教の司祭なんかをやる羽目になるとは思いも寄りませんでしたがね」
 ふっと嘲うと、敬虔な司祭はそれまで大切に抱いてた神像の収まった厨子を、無造作に放り投げた。
あっ、と周囲の教団員達の中から悲鳴が上がる。
壇に落ちたはずみで蓋が開き、中からぬめりのある妙な塊が滑り出る。
周囲に居た教団員が弾かれたように膝をついて、慌てて像を箱に押し込んだ。
幾人かの男達が脅えた表情で、豹変した司祭を見上げる。
男は黒い口を大きく開け、長い身体を震わせて声を出さぬまま哄笑していた。


──「超音波」設定・やまい 作・ナルシア



ビジネス



 アキコの生来のカリスマ性を目のあたりにした石地は、彼女を教祖に立てた教団の形で深海水の販売事業に乗り出した。美しく神秘的な看板のおかげで水は飛ぶ様に売れた。無論、ペリリューから水を運ぶ事はまだ不可能なので原理的に同じ日本沿岸の深海水を汲み上げるのだが、クトゥルの神は大洋を遍く移動すると信じる王女は、石地の説明に納得した。深海水の味が、幼い頃親しんだ『ルリヱの井」の水に近かったのだと言う。
「しかし、深海からのポンプによる海水汲み上げは結構手間がかかりましてね。取水口が300メートル下ですから途中故障が起きたら厄介このうえない。
自然の沸き出し口であるルリヱの井から取水して船で運んだほうが実は経費もかからないし、水そのものの純度も高いのです。いずれパラオ側と交渉して、産地直送の竜宮水を販売網に乗せるつもりでした」
「──そのためにカヤンベサウの一族の消息をちらつかせ、榎木津元子爵を拉致したのですか」
 消息という以前に、珍しいパラオ産のヤドカリを見せられただけで元子爵は素早く反応したのだが。
「人聞きの悪い事をおっしゃる。榎木津氏とは多少なりとも面識がありますし──とはいってもあちらは私の事など殆どお忘れになっていましたが。私も様子が大分変わっておりましたからね、無理もないのですが」
「おんなじ格好で来たって、胸に名前が書いてあったって、あのオヤジがあんたの事なんか覚えている訳ないねッ」
 唐突に榎木津が喚く。
「でも、僕は忘れない」
 ぴたり──と探偵の瞳の放つ強い光が、黒い僧服の男を捉える。
大戦中、榎木津中尉と石地少佐との間にどんな確執があったのか、鳥口は知るよしもない。
普段周囲の者が呆れて言う様に、榎木津が物をまるっきり覚えないというのは誤解である。
普通にしていても常人より取得する情報量が多すぎるので、この度外れた男は興味の無い事を極力気に留めないだけなのだ。記憶力はむしろ──優れている。
昨日、父親を連れ出した不審な男の姿を兄の記憶から「見た」榎木津は、すぐさま行動に移った。竜宮水を詳しく調べたい、と意気込む敦子の身辺を心配して榎木津の元へ相談に行った鳥口は、事務所の前で出会った探偵に問答無用で同行を強要された。当然、行動の説明など一切ない。鳥口はただ、榎木津の通常とは異なる気迫に圧倒された。
 それは光栄です──と、射る様な探偵の視線を受け流し、石地は大きな口で微笑する。
「榎木津氏はパラオ政府筋にお顔が効きますから、これから計画している深海水の輸入ビジネスに出資して頂けないかと、お話を聞いていただくためにおいでいただいたのです。普通の、商談です」
「監禁されて徹夜の商談かよ」
 刑事の嫌味など石地は意に介さない。
「榎木津さんが私共の出来る限りのおもてなしを大変気に入って下すって、すっかり寛いでいらっしゃるのですよ」
 息子がうんざりした様子で言う。
「それは本当だよ、あの変態オヤジ。折角迎えに行ってやったのに、帰りたくないーなんて駄々をこねるから放ってきた」
 榎木津に強引に引き摺っていかれた鳥口が補足する。
「そのう。ここの防空壕の上は凄い立派なお屋敷になってまして、そこに大将が殴り込んで、見張りとか警備とかの連中を全っ部吹っ飛ばしたんすけどね」
 豪勢な中庭の温室で種々の佳肴と銘酒に囲まれた榎木津幹麿氏は、熱帯植物の間に放された生きた熱帯の昆虫コレクションに夢中になっていた。
「だんだらのしましまのでっかい虫が跳ぶんだ!ああキモチ悪い」
 恍惚と趣味の世界に浸る父は置きざりにして、当の榎木津は館の地下室で発見した例の戦車に乗ってみたのだ。嫌も応もなく鳥口は道連れである。戦車は、なだらかなコンクリートの地下道を辿って教団員の熱狂のまっただ中に神の顕現の如く姿を現した。
「水は──大丈夫だったかい」
「大丈夫だよ。いつもと同じイカレ具合だった」
 元子爵が饗応中に竜宮真水に入れられていたような薬を飲まされているのではないか、と中禅寺は危惧していたのだろう。石地の言う通り商売目的の接待ならば、その恐れはないようだった。
「まあ、幹麿氏のほうは帰りたくなったら自分で帰るだろう。
僕らは帰れなくなってしまった人を連れていく事にしよう──石地さん、」
 教団員達が脅えて退いてしまったので、黒い司祭は単身でぽつりと立っている。
「貴方が榎木津氏を強引に仲間に引き込もうとしたのにはパラオとの交易ビジネス以外の目論みがあったのでしょう」
「見当もつきませんが」
 中禅寺が畳み掛ける。
「そんなはずはないと思うのですが。カヤンベサウ家の財産の多くは東京の銀行に預けられている。アキコさんが成人に達するまでは三ツ矢家当主が、三ツ矢家に何かあれば榎木津氏が管財人となって財産を管理している」
 天涯孤独の王女の財産?
「アキコさんは去年成人に達したために財産を自分で管理する権利がある。今、彼女が自分に財産がある事を知ったら全部宗教活動に注ぎ込んでしまうだろう。教団に全部任せてくれれば貴方も自分で少々ちょろまかすくらいは出来るだろうが、大量に使い込むとばれるし、彼女は慈善的な人だから貴方からすれば無駄な事に使いかねない」
 光を反射する丸い眼鏡の硝子は、何の表情も伝えない。
「ここは榎木津氏をビジネスパートナーとしておいて、折を見て、教祖が榎木津氏が探し続けていたアキコさんである事を打ち明け、『宗教にのめりこんでいるうちは財産を渡さないほうがいい、正常な判断力が戻るのを待ちましょう』などと言っておく」
「それじゃ、手前の金にはならないじゃねぇか」
 中禅寺は木場のほうには顔を向けないまま、彼の問いに答える。
「なるよ。例えばの話だが、頃合いを見てアキコさんに遺言状を書かせるのだ。彼女のすべての財産──彼女が自分で所有している事を知らない財産だが──を教団に委ねるとね」
「遺言状──」
 息を引き込むような声で鳥口が呟く。
「ちょっと待て、それじゃあなンだ、その男は」
「推測だ。そういう手もある、と言うだけの事だよ」
「そんな、そ、そこまでの事をする程の価値の有る財産なのか?」
 擦れた声は関口だ。中禅寺はやはり視線を前方に据えたまま動かさない。
「小金を貯めていた程度の信者から薬で全財産を搾り取って死に追いやったような男だ、額は問題じゃあないだろう。しかしこの場合は──確かに彼女が相続したものには莫大な価値がある」
「王家だけに金銀財宝がざくざく?」
「王家といったって小さな島の首長だ、交易や搾取で利を得るとしても限度がある。
君達には弐ノ宮博士がルリヱの井の価値をどこに見たのかさんざん話しただろう」
「養殖に使うって話でしたね。僕ぁ、海老がいいなあ」
「海老でも鯛でもまあ、利益は得られるだろうが、なにもルリヱの井に限る事はない。
深海水の沸き出す場所ならばどこででも出来る事だからね。
石地さんが戦後わざわざ弐ノ宮博士に接触し、行方知れずだったアキコさんを探し出して、大変な手数をかけて彼女を手懐けてまでルリヱの井に執着したのは──あれのためさ」
 中禅寺の視線が、蒼褪めた彫像のように立ち尽くす教祖に向けられた。
一斉に彼女を見た者達は、それが何を示すのかを瞬時に悟る。
微かに震える教祖の胸で、清冽に輝く純白の雫。
「真珠か!」
「そう、海水の栄養塩類は自力で餌を捕る魚や甲殻類等よりも、海水そのものを濾しとって養分を得る貝類に覿面に影響を与えるのさ。品質の良い南洋真珠の産地として知られるパラオでも、深海水の沸き上がる地域は限られている。
カヤンベサウ家が所有するルリヱの井一帯の湾は──世界最大の白蝶貝を生み出すのだ。
つまり、世界最大にして最高級のバロック真珠の利権を、カヤンベサウ一族は持っている」

全員の刺すような視線が石地を取り囲んだ。
奇妙に長い司祭の姿が、松明の光の中で黒い炎の様に揺らいでいる。
ゆっくりと溜息をつくような穏やかな声が、異様な影から洩れる。
「いろいろと思い付かれるものですね。感心を通り越して、もう呆れ果てていますよ。
しかし残念ですが、貴方の推測とやらは全くの的外れです。全く、物騒な方ですね」
 流石に、そこまでやる積りは無かったと言いたいのだろうか。
「生憎ですが私は彼女の命を亡きものにしようなどとは只の一度も考えた事はありません。
私が考えていたのは、もっと平和的で、魅力的な手段です」
 一際優しく、恥ずかしげと言っても良い程低められた声が、聞いている者の肌を粟立たせる。

「私は彼女に結婚を申し込もうと思っていたのですよ──いや、笑わないでください」

 笑う者など──誰一人いなかった。

──「ビジネス」 作・ナルシア





2004年8月初出・2005年1月編集



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