「竜宮の呼び声」 地底篇   

大変長らくお待たせ致しました、京極クトゥルーリレー小説後半戦、
戦後生まれの戦中派・やまいさんの度胆を抜く設定で舞台は地底へ!


地底突入

嵐が迫っていた。
次第次第に微温い風は定まらぬ方向から吹き抜けるようになり、
それにともなって大粒の雨がばらばらと地表を叩く。
闇の空を渦巻く濃密な雲の圧力が感じられた。
その地上をあとに、予てよりの手筈に添って、青木は地下道からその側道へ入り込んでいく。
『るりゑ教団』として知られる謎の集団、その本拠地が地下に有るとの情報による。
既に、はっきりと分っているだけでも二人の関係者が命を落としている怪しげな教団。
嵐が激しくなって、後続の連中に足止めをくわさねば良いのだが、と僅かに案じつつ進んだ。
やがて、路地のような細い側道が、奥行きのある広間のような空間に達した。どろどろと、重々しいものが地下に反響している。

「ふんぐるいむなぐるうなふくとぅるぅるるいゑうがなぐるふたぐん、
ふんぐるいむなぐるうなふくとぅるぅるるいゑうがなぐるふたぐん、
くとぅるぅ ゐあ! ゐあ! うがなぐるふたぐん! うがなぐるふたぐん!!」
幾万もの市民が日々の暮しを送る大東京のその暗い地下深く、おぞましき狂える賛歌が、重く低く、渦を巻いた。かつて帝都の大防空壕として当初計画されたその地底空間は、各方面から排水路や下水管を、或いは同時に整備された地下廻廊を経由して、邪教団員を集める一大根拠地と化していた。
これを眼にした青木は、はじめて、署に幾つか届けの出ていた、謎の地鳴りとも雷鳴ともつかない夜中の怪音の正体に思い至ったのである。
「──こ、こりゃあ──」
狭隘な排水路をとぼとぼと辿って、壁面の陰から覗く青木の視野には、ゆらゆらと燃え上がる松明を映して、ただでさえ怪しい姿をさらに醜怪に見せている巨大な像が、そしてその前で唄うように唱えるように声を揃える教団員達の、奇妙な頭巾を被った異様な姿が、まるで異界の如き光景を見せていた。限られた空間で、松明の煙と人いきれ、そして像に浴びせられる海水と思しき大量の水。
それらが濃い霧となって漂い、濃厚なベェルの如く視界を朦朧とさせている。
「へっ、なるほどな。こういうことかよ」
ようやく追いついた木場が、青木の横で吐き捨てるように云った。
青木達は、教団員達がその気になりさえすれば、いとも簡単に見付かってしまうだろう場所にまで辿り着いているのだが、連中は全員が祭祀に夢中で半ば陶酔しており、まったく周囲は眼中に無い様子であった。拝礼の動作が一糸乱れぬところも鬼気迫るものがある。
像の足下、壇上の教祖の傍らには、螺鈿細工と思しき輝きを放つ小さな仏壇のような箱を携えた男が控えている。その箱の開いた扉の奥には、巨大な神像とそっくりな黒い塊が収まっていた。かなり毛髪の薄い男は丸眼鏡をかけ、背を屈めて箱を護るような姿勢でいる。それに対し、怪しげな祭祀服をまとった教祖の表情は、得体のしれない深海生物を思わせる被り物に隠されてしまっている。
その隣に──
次の瞬間、小柄な人影は屈強な教団員の肩に遮られて青木の視界から消えた。
身を乗り出していた木場の横顔が、何かを確信したらしく引き締まる。
「どうやらこれで役者がそろったみてぇだな。上等じゃねぇか」
「でも先輩、さすがに応援待ったほうが善かないっすか? 相手はあの人数だし──」
「なにびびってやがる。逃がしちまったら、元も子もねぇだろうが」
委細構わず進んで行く先輩の大きな背に向け、青木は溜息をつく。せめて木下や長門がやってくるまで、あと少しだけ待てないものか。しかし、確かに頭目を逃すのも業腹だと考えつつ、たった二人で飛び込むならどこが、と目星を付け出した。

と、その時である。
広大な地下空間、そこへ通じる地下廻廊のひとつから、硬質な音が近付いてきた。

きゅらきゅらきゅらががごごごきゅらきゅらきゅらががごごご

黒くぽっかりと口を開く地下廻廊。
遠く幽かに響いていたその音が、次第次第に近付いてくる。

きゅらきゅらきゅらごががごがきゅらきゅらきゅらきゅらきゅら

その音に気付いた信者達の群れが一際大きく波打つ。

ふんぐるいむなぐるうなふくとぅるぅるるいゑうがなぐるふたぐん、
くとぅるぅ ゐあ! ゐあ! うがなぐるふたぐん! うがなぐるふたぐん!!

人の波は扇型に広がり始め、今や熱狂的な期待の込められた声が耳を聾せんばかりに
洞窟に響き渡った。
青木の足が地の響きに細かく震える。
汗を拭って暗い洞窟の奥に視線を凝らす。
隧道の様な廻廊の幅一杯に小山の様な黒い塊が、
ゆっくりと、だが確実に、一直線に突き進んでくる。
あれは、あれはいったい──。

かっ、と凄まじい光が黒い胴体の中程に閃いた。
その光に打たれたかのごとく信者達はどっと崩れ落ち、
地面にひれ伏したまま祈りを叫び続ける。
まさか、神が。
本当に祈りに応えて神が君臨したというのか。

「わははははは!」

凄まじく大きくなった金属音に負けない大音声。
紛う方なき声の主は、なんとも云えぬ凶暴な輝きの眼に松明の明かりを映しながら登場した。
それは──海底の暗神などではない。
破天荒なる探偵、榎木津礼二郎その人であった。
彼が騎乗しているのは──なんと、こともあろうに、紛れもなく戦車である。
枯草色の車体に少し角ばった砲塔を載せ、そこから長大な砲身が前面に振りかざす角の様に突出している。凶暴な鉄塊から身を乗り出し、両腕を拡げて振り回す件の探偵。
揺らぐ灯火が作りだす陰影のために、さながら大暗黒天を描いた密教画か、躍り狂うシヴァの神の様な有り様だ。
「あ、あ、あ、ああ、あの奇天烈莫迦ッ! 莫迦が戦車でやって来やがったっ」
 木場が猛烈な腹痛をこらえているような表情で喚いて、顎が落ちたままになった。

「何を驚いているのだ、立方体とんかち方眼用紙男。僕が来てやったぞ」
駈け降りた木場と青木の眼前で停止した戦車、その3メエトル近い上方から見下ろしながら、榎木津が云った。
地下のことゆえ、さすがにその頭上には余裕がない。しかしそんなことにはお構いなく、
一種、晴れやかなとでも云うべき表情である。そう、新しい玩具を手にした子供の様な──。
「なんでまた──。それに手前ぇ、こんなもンどこで手に入れやがったんだ」
 最早、見上げる木場は半分べそをかいたような表情に変わっている。
「これか?これは其処の奥、別の地下洞窟の奥深く秘密裏に隠してあったのダ。
四式中戦車。凄いだろう、わはははは」
 ぺたんぺたんと平手で砲塔を叩きながら何の屈託も無い様子で云う。
「だからなんでそんな代物がこんな所に──」
「知らないのか修ちゃん、東京には地下要塞があったんだぞ。嘘かと思っていたら本当に造ってあったんだなあ」
「だからよぉ、なんで手前みてぇな唐変木万年赤道祭男がこんな戦車に乗ってるのかって──」
「わはははは。 騒がしい地面の底に潜って、ふと見るとなんと! これがあったのだ。
帝国陸軍が誇る長砲身75ミリ砲搭載の四式中戦車だ。ちゃんと整備もしてあったよ。凄いだろう。うふふふ」
「──ふと見ると、ですか」
つくづく常識の外にいるひとだと云う表情でいながら、青木は秘かに安堵の息をついた。
そんな下界の人々を見下ろして呵々大笑する榎木津は、砲塔天蓋の車長用ハッチから半身を乗りだしている。作業服もしくは戦闘服の様なカーキ色のつなぎに戦車兵が被っていたヘルメットを斜めに、そして単車用ゴーグルと白い絹のマフラー。
ちっともじっとしていずに、今度は革手袋に包んだ両手を、ぱしんぱしんと打合わせている。
状況が別なら、実に愉しそうだと誰もが云うだろう。そう、まるで──はしゃいでいる。
「何が帝国陸軍だ、とっくに武装解除だ。忘れたか、頓珍漢のすっとこどっこい野郎」
「だーれーが大日本帝国と云った?新しい『帝国』なのだ。むろん、帝王はこの僕だッ! むはははは。諸君、これからは陛下と称びたまへッ」
 盛大な溜息が複数漏れたが、それどころでは無い。
今や、意味不明の侵入者によって重要な祭祀を妨害された事に気付いた教団員達の不気味な眼に、ようやくのことで暗い怒りの色がちろちろと燃え上がりだした。
身じろぎもせず、視線も揺るがない。
壇上の教祖は、傍らの男になにやら耳打ちされている。

「ぷはあっ。暗い、狭い、息苦しい、おまけに外が殆ど見えない。なんとかして下さいよう、うへえ」
 操縦者席のハッチを開いて顔を出したのは鳥口だった。なんとも情け無い表情である。乗ったこともない全装軌車を無理やり運転させられ、そのぎくしゃくした動きについていけなかったと見え、既にあちこちぶつけた様子で、額には見事な痣が浮いている。
「こんなもの、車と違って、まともになんか走らせられませんって。変速器の使い方も皆目知らないんですよう。それなのにここまで来たんすから、もう勘弁してくださいよう」
 半泣きである。
「勘弁しろって、また何かやったと云うのか?」
 腰砕けを起しそうに無邪気な台詞であった。
「まあいい。修ちゃん、この神馬に乗せてやろう。砲塔が廻らないと格好良くないからな。さあ行くぞ!」
「けっ、好きに云ってくれるじゃねぇか。よぉし。昔とった杵柄、戦車も一通りはわかってる。やってやれねぇこともねぇぜ。青木、後のことは頼む」
「先輩っ、頼むって──」
「うへえ、連中が来ますって」
 鳥口が慌てて車内に引っ込む。他の人々が戦車の背後で物陰に隠れる間に、木場は意外に軽い身のこなしで、転輪から履帯に足をかけて車体にとりつき、砲塔へと滑り込んだ。
「よし、ゆくぞッ。鳥ちゃん、戦車、前へッ!!」
 榎木津が右手を高々と挙げると、さっ、と前へ倒した。
再び空冷ヂーゼルエンヂンが薄紫の排気を後方に噴出し、起動輪がゆっくり回転して無限軌道を送りだし始める。
戦車は歩兵と共同で互いに援護しあって進撃するものだ。歩兵の援護なしで突撃すれば、もし敵が肉薄して発動機覆いに火炎瓶でもぶつけて来た場合、厄介な事になる。
そんな事態になったら、青木も戦車の援護に向かわねばなるまい。
やはり、応援が欲しいところだ。
青木は後にして来た地上からの入り口をそっと振り返る。
地上の嵐は──どうなっているだろう。

──「地底突入」作・やまい


戦車


その頃、戦車内では木場が喚き散らしていた。
「おい、撃てねぇぜ、この砲は。機銃は弾が無ぇしよ」
「なんだって? 全然聞こえない。わははははは。突撃ぃッ!」
 戦車内では大音響が轟き、到底普通の会話は不可能である。それゆえに喉音マイクロフォンなどで乗員同士の意志疎通、命令伝達を成立させるのだが、誰もその装備を身に付けていないのだから無理である。わずかに、車内で近くにいる木場と鳥口はかろうじて話ができるが、榎木津は意に介さず、丁度そこに有る木場の肩を膝で蹴飛ばすのが唯一の意志疎通手段だった。
「せ、戦車なのに、大砲撃てないんっすかぁぁぁぁ?」
 操縦席へ直に伝わる駆動系の振動に、語尾を揺らしながら鳥口が大声で訊き返す。
「ああ。この砲のケツんとこにある閉鎖器な、このいわば蓋が開かねぇから、砲弾詰めようにも、どうにもこうにもならねぇ。こりゃあ発砲不能だ。やっぱり何年も放りっぱなしじゃなぁ」
 木場も怒鳴り返すようにこたえる。もっとも、たとえ砲撃可能だったとしても、地下でぶっ放してはどのような事態が起きるか分からない。撃てない事に変わりはなかった。
「うへえ。ま、真っすぐでいいんでしょうねえぇぇ。どっかへ落っこちるなんて厭ですようぅぅぅぅ」

 結局、戦車は鳥口が変速器の操作が分らないままに走らせたため、ゆっくりと前進を続ける巨大な鋼鉄の塊と化した。行く手にたむろする信者の誰一人として、轢かれたりすることもなく身をかわせる。
図体の割りには、間抜けである。
或る意味では、戦車そのものよりも砲塔の上で喚き散らしながら狂った様に笑い続ける榎木津の姿の方が、遥かに恐ろしげな姿に見えたかも知れない。
いずれにせよ、戦車の行く手を阻むものは無かった。
その戦車がにじりよっていく方向には、見上げる様な高さで、邪悪かつ醜怪な『神像』が松明に妖しく揺らめいている。さきほど中断するまで続いていた祭祀で、信者の唄声の高まりとともに次々に浴びせられた海水によって、表面は緑黒くしかもぬらぬらとぬめっていた。
その濡れた像を這廻る、何か小さな多足生物も其処彼処にかいま見える。
「目標、前方のコーリューっ!」
 喚く榎木津。
「は? とにかく前に進めばいいんですかぁぁぁぁ。じゃあこのまま、痛ッ! 舌噛みましたぁぁぁ」
「おい、このままぶつける気かよ。砲塔後ろ向きに廻すぞ、手伝えって。
蹴るなッ、莫迦野郎っ!」
 進む車体と神像の狭間には、さすがに慌てて狼狽える信者の一群。
もう少しで見上げるばかりの邪神像に戦車がぶつかる、と云うその時。
丁度、像の乗る舞台の様に三段ほど高くなっている場所で、戦車の下から急に軋る様な厭な金属音が響いた。
ぐぐぐっと左に方向転換しかけた重い車体が、がっくりと前進を止める。
錆びて劣化していた戦車の無限軌道が、此処までの酷使に堪え兼ねて、左、続いて右と、両側ともついに切断してしまった様子だった。
ほぼ同時にこれも間に合わせだったのだろう蓄電池も寿命が尽きたか、眩い瞳のように見えた前照燈もふっ、と消えてしまった。
混乱した鳥口が適当に操作したためか、発動機までが、すとん、と唐突に停止する。
「あれ? うへえ、動きませんよう。えいっ。このっ」
 機械音がばったり消えて、地下に思わぬ静寂が拡がった。

「当たり前だ、足回りが壊れた。ああ愉快だった。わはははは」
 ぱしんぱしんと、また砲塔を手で叩く榎木津。
「ばっ、莫迦野郎! 笑ってる場合か」
「修ちゃんは黙って砲塔を廻す! そら、右だ右! 急げ急げぇ」
 動力源を失い、今や砲塔の旋回は把手を廻す手動である。
「右だぁ? 畜生、覚えてやがれっ」
 毒づきながら木場が把手を握る。砲塔の重さであっと云う間に汗みずくになった。
ぐっぐっぐっと砲塔が旋回していく。長い砲身が、濡れた神像に迫る。
狼狽えて右往左往する信者達。
しかし、身の丈を軽く上回る鉄の塊には手が出せない。
砲がついに、ぎぎっと音をたてて像に達した。
「何をしているのだ、修ちゃんっ。貸してみロ!」
 榎木津の上半身も砲塔内に隠れる。勢いをつけて動き出す砲塔。そして──。
ずしゃん、と像は呆気なく胴体から無様に横倒しになった。胴体はがらんどうである。
頭に奇怪な突起と見えていたのは、どうやらスクリュウのようだ。
像の陰に群れていた蟹が、さっと散るように水路の方へ走った。

こうりゅう。
海軍の特殊潜航艇「蛟龍」である。
魚雷を2本抱え、上陸してくる米軍を沿岸で奇襲攻撃する、いわゆる決戦兵器の一つである。
水に浸かって蛎殻や藻がびっしり貼り付いていた船底を適当に分解した上で、真ん中だけ立て掛けて像の芯に使っていたのだ。元海軍士官の榎木津なら一目で見分けただろう、と後に青木に細々と説明をしてくれた中禅寺が言った。

再び姿を表す榎木津。素早く戦車から降りると、倒れた像の頭部を踏みつけにする。
「なんだ、こんなもの。勘違いした器に勘違いした神か。
莫迦だなあ、なんて莫迦なんだ。頭が悪すぎる」
 離れて聞いている青木には、榎木津の声にわずかに寂しげな調子が聴き取れた。
その直後、何者かに背後から肩を掴まれ、青木は思わす飛び上がりそうになった。

当の榎木津は、また鋼鉄の車体に跳び上がる。
「さあ貴様ら。悪いやつは帝王であるこの僕が退治してやル!
文句の有るひとは前に出なさいっ」
腰に両手をあてて車体の上に立つ戦車長。続いて木場も現れる。操縦席のハッチからは、恐る恐る覗く鳥口の鼻から上。倒された巨像を見た信者の中には、その残骸に縋り付いている姿も見える。だがしかし、深海生物を思わせる飾冠を頭に被った教祖を囲む一団は、しっかと彼らの敵を睨んで動かない。
教祖を囲む中から数人の屈強な男達がにじりよりはじめた。低い声でなにやら繰り返し唱えているようだ。ひとりが、さっと戦車上の榎木津の足に向けて手を伸ばした。素早い動きでそれをかわすと榎木津は、流れるような所作でなにか舞踏のような構えをとった。
「おい、お前ぇ、そんなもん何処で覚えたんだよ。中国拳法の構えじゃねぇのか、あん?」
「この前、横浜の南京街で、とある支那服のお姐さんに習ったのだ。わははは」
 まだ大勢の信者が周囲にいるために、青木は迂闊には動けない。
また別の男が戦車に近寄る。今度は木場が、身体ごとぶち当って行った。
「修ちゃん、今の、善い。まるで空飛ぶ煉瓦のようじゃないかッ」
「煩瑣ぇ、黙ってろって。このっ」
 相手の腕を、素早く背中で固めた木場が叫ぶ。他の連中は少し腰が退けてしまったように一歩下った。
 その時、教祖の背後で陰になっていた場所から、螺鈿細工の箱を持った男が灯のもとに姿を現した。
「あ、お前!」
叫ぶ榎木津。相手の男もなにやら一瞬首をかしげたあと、丸眼鏡の奥で、はっと眼を見開く。
榎木津の視線と、丸眼鏡の男のそれが、きりきりとぶつかる。榎木津が右手の拳を握りしめた。
誰かが動きをみせるその直前、じりっ、と教祖が壇上に一歩踏みだした。
揺らぐ炎に妖しく陰影を彩られ、あたかも背に巨大な黒いマントを羽織っているようにもみえる。
その端然と落ち着いた所作振舞いに、それまで混乱した喧騒の渦中にいた信者達までもが
思わず、ふっと動きを止めてみつめる。
「るりゑの大神の御前です。お静かになさい」
奇怪な海棲生物を思わせる被り物の下から響いたのは、大方の予想を裏切って、
若い女の声だった。そして彼女が、被り物を脱ぎさる。
被り物と共に、肩からガウンも脱ぎ去った。
海の青の短衣に長めの薄い金色の衣をまとっている。
むしろ小柄だが均整の取れた体格。健康的な艶をみせる浅黒い肌。
豊かな黒髪は、わずかに軽く波打って肩にかかっている。
「お止しなさい、そこのあなた。そちらのあなたも手を放しなさい。間もなく地上に神が降臨なさいます。
そのような時に何をしようと云うのですか、不心得者め」
凛とした声が、空洞に響く。
木場がつかんでいた男の身体を放り投げるように放した。思わず、もんどりうつ男。
榎木津は、視線をじっと女の頭上辺りに送る。
ひと呼吸の後、哀しそうな目付でふっと小さな溜息をついた。
女の胸元には、緋色の珊瑚玉をあしらった真珠の首飾りがみえていた。その先端には
涙の滴の形をした一際巨大な真珠が揺れている。
息苦しい沈黙が洞窟を支配する。

──「戦車」作・やまい

京極堂登場


そして。

かあん、と木の鳴る音がコンクリートの壁に木霊した。
睨み合った一同がはっとして壇上の一方に目を向ける。
黒い影のような男がゆっくりと、背後に揺らぐ影法師をお伴に上がって来る。
揺れ動く松明の炎に陰陽師の半身が陰影濃く照らし出される。
漆黒の和服に白く染め抜かれた五芒星の紋。
──来やがった。
木場は小さな目に力を込めて黒い拝み屋を睨む。
黒い手甲に黒い足袋黒い下駄。
鼻緒だけが赤い。
──こいつのほうがよっぽど邪な存在に見えるぜ。
一方光を受けて海に映る星のような金色の輝きに包まれた
年若い邪教の教祖は場違いに──気高い。
黒い瞳が燃え立つ様な気迫で闖入者達を見据えている。
「あなた方は何者です。何故神聖なる儀式を妨げこのように無体な所業を為すのですか。
私達は多くの人々の幸せをこそ願え、人を害するような行いはしておりません、何故」
「これ以上は無意味だからです」
 気迫のこもった教祖の声を強い声が遮る。
気を飲まれていた男達が色めき立った。対する木場も身構える。
「待ちなさい、これ以上の争いこそ無意味です。僕は」
 黒い袂を翻して陰陽師──中禅寺は周囲を制し、穏やかに続けた。
「──この場所に居るべきではない人を地上に連れ戻す為に来たのです」
 中禅寺が視線を向けた先、教祖の背後を固める屈強な男達の肩の谷間に、
窶れた無精髭が見える。
男は弱々しく顔を上げると──幽かに微笑った。

「関口さまを」
 不審な男の視線を追った教祖の黒い瞳が大きくなり、思い掛けず無垢な表情が浮かぶ。
「あなた方は関口さまの」
 頼まれたのです、と中禅寺は素っ気無く言う。
 周囲の注目を一身に浴びて落ち着き無くしている小柄な男に、教祖は不思議に柔らかな視線を向けた。
「けれどわたくしは、関口さまはこの教団にこそ相応しい方だと信じております。
大神の都のヴィジョンを体感なさる事の可能な、稀なる幻視の資質をお持ちの方だと」
 相応しいといえば、まあ相応しいのでしょうが、と中禅寺も妙な相槌を打つ。
「大の大人が自分の意志、自分の判断で赴くのならば僕も敢えて留め立てなどしません。
だがこの関口君は非道く惑わされ易いのです。何時だって、踏み込むべきでない場所にまでついふらふらと迷い込んでしまう。今回も自分でも理由も分らないまま悪戯好きな小鬼に誘われてこんな地の底まで来て仕舞ったのでしょう。
別にこのまま此処で海の底の神を乞い願っていても本人はそれなりに幸なのかもしれませんし、僕も手がかからなくて楽なのだが、彼には地上で待つ人が居る」
「──そうですか」
 長い睫が伏せられる。
意外にも、木場はこの草臥れ果てた友人がなんだか一瞬羨ましく思えた。
「では、関口さまをお返しすれば、貴方がたは此処を立ち去ると言うのですね」
 再び顔を上げた教祖は元の威厳を取り戻している。
「それが、そうもいかないのです。此処に居るべきではない人は彼一人ではない」
「ならば一刻も早くその方も連れてここから去りなさい」
「では」
 再び教祖の正面に立った陰陽師は恭しく頭を下げ、朗々とした声を上げた。
「僕達と共にこの場所を出て地上に戻って下さいますか、
アキコ・カヤンベサウ陛下」

「陛下」
「おい京極」

教祖の瞳が一瞬、空を彷徨ったかに見えた。
しかし、応える声は揺るぎない。
「貴方は人間違いをなさっています。わたくしはそのような方ではありません。
わたくしの名はシルス」

「それは、貴女の名ではない。名乗るべき名前を──貴女は忘れてしまったようだ」

善く通る声の主が、すいと前に進み出る。
闇を人の形に切り抜いたかの如く黒い男の影。
娘は、己れを守ろうとするかのように薄物を身体に強く巻付けた。
その動きで乏しい灯りを映した金の羅が煌めいて、
薄く震える羽根に身をくるんだ精霊を思わせた。
彼女の浅黒い顔は青褪めて艶を失ってはいたが、表情には些かの怯えも見えない。

「私は神聖なるクトゥルに仕える巫女。それ以外の名は捨てました」

──「京極堂登場」作・前半 ナルシア/後半 狛犬


入り江・遠い過去


生きている──のだろうか。
浅い入り江の水は水晶の様に透き通っている。
その澄み渡った水の中を長い銀色の帯を延ばして
縦にしたような形のものがゆったりとのびやかに動いている。
流されているのではない。
潮の引いたこの時間、岩に囲まれたこの入り江の水には
水面を揺らすかすかなさざなみ程度の動きしかない。
自ら意志持つもののように、それはするすると一直線に延びていく。
帯の両端は岩場に隠れて全体の貌は伺い知れない。
長い。ながい長い長い長い、
見れども見れどもその帯は尽きない。
銀色の表面には大きく朧に輝く青い斑点が鏤められている。
時折細い深紅の糸が銀地の上で仄めいて見える。
美しい。
なんという美しさだろう。
それは此の世ならぬ畏怖を覚えると同時に
恍惚に我を忘れる光景である。
やがて帯がゆっくりと大きく撓ると漸く細い先端が現れ、
岩場の一点に長い時間をかけて吸い込まれていった。
否、長い長い時間に感じはしたが
本当は僅かな間の出来事だったのかもしれない。
最後の瞬間その先端は白い指先のようにひらひらと揺れた。
今のは。
何だったのだろう。
私は何を見てしまったのだろう。

「□□□□□──」

彫像のように凝固していた私の傍らの大きな影が漸く掠れた声をあげた。
何と言ったのか。
私の知る言葉ではない。
振仰ぐと声の主は私の目を覗き込んで堰を切ったように捲し立て始める。

これはすごい。
きみのおかげだ。
きみのおかげだ。
なんてすばらしいものがみられたんだろう。
ほんとうにあんな素敵なものをみせてくれるなんて、
きみはほんとうにかみさまの。

声を掠れさせているのは歓喜だ。
支離滅裂なのは興奮の為せる技だ。
それ程までにあれは喜ばしいものだったのだろうか。

わたしたちはなにをみたの。

最前の言葉が繰り返される。
判らない、
その言葉を私は知らないのだ。
興奮にがくがく震える腕を押さえ付けながら
歓びに満ちた声はひとつひとつ
私に判る言葉を探してくれる。

ふかいふかい海の底に。
この世の生き物とは違う形をした
かみさまのおしろがある。
そこからわたしたちのもとへ、
あれはおとずれた。

ではあれは。
今頃になって私の身体は震えがとまらなくなる。

深い深い海の底の。
かみさまのおしろは人の手で形にあらわすことはできない。
海の底では地上で人が生きるよりもずっとながくながく
生きる事ができる。

掠れた声は私を宥めるように優しい調子で語り続ける。
水面が波立つ。
潮が満ちて来たのだ。
──「入り江・遠い過去」作・ナルシア


海神の巫女


教祖の指示がないかぎり教団員達が勝手に動く恐れがないのを見て取って、
木場達は壇を上った。
揺れる光の中で大きく見えた教祖は、同じ高さに並んでみれば小柄で、
しなやかな肢体を持つ思った以上に若い娘だ。
中禅寺は背後の彼らに視線を向ける事なく、正面の教祖に対峙している。
木場は心得て、息を詰める。

「御自分を巫女と仰いますか」
男は声を低めた。
「巫女、命婦、祝女――呼び名は様々ですが求められる役目は一つ。
神意の体現です。
聖なる存在に完璧に仕える為には、並々ならぬ覚悟が要るのですよ、陛下。」
「──」
教祖は顎を引いて答えなかった。相手の一挙一投足を見詰める眸が黒々と深い。
「神の言葉を伝える者は、人ならぬ身に化生せねばならぬ事さえ有る。
貴女にはその覚悟が有るのですか」
「勿論です」
そうですか、と陰陽師は顔を巡らせた。
静まり返った暗がりのただ一点を注視するその視線の先に、憔悴した小説家が居た。
黒い男は面白くもなさそうに目を細めた。
「貴女方が崇める神については、僕も僅かながら聞き及んでいます。
南瞑の深淵に棲まい、怒れば颶風と大波を呼び、其の力を侮る不信心者は無数の触腕で海の底に引きずり込んで貪り食う…荒ぶる神ですね。
ルリヱと呼ばれる海の社で眠り続け、いずれ彼を捕らえている昏睡の鎖から解き放たれた時には、白く泡立つ波頭を割って洋上に巨大な姿を現し、信心深い者達を海の彼方の楽園に導くという。
るりゑという名を聞かなければ、気付かなかったかも知れない。
クトウル信仰は、南の島で命脈を細々と保っては居るのだろうとは思っていたが、此の東京で集会が開かれることになろうとは。如何にもあの男好みの派手な謀り事だ」
男の微笑に翳が差して、一瞬、近寄り難い程の険を帯びる。
「本来、『あの辺り』は雲が寄り集い、若い台風を育む揺籃と目される海域であって、巨大な嵐に晒される事は却って少ない。だからこそ偶さかの大嵐が格別の被害を生むときは、人の記憶に深い爪痕を残しもするのでしょうが──気儘に嵐を呼ぶ古えの祟り神を祀る方法が、此れで正しいと云う確信を、貴女は一体何処から得たのですか」
「何処からでも、誰が告げた事でもありません。わたくしの身のうちに流れる血が教えてくれたのです」
そう云って微笑む娘の誇らしげな表情に、木場は危ういものを感じた。
此れほど心を捧げた信仰を失ったら、彼女はどうなってしまうのか。
凛として気高い此の娘が、教祖。人死にに関わった怪しい教団の。
何かの間違いでは無いのか。
彼女と対峙する陰陽師を見遣りながら、木場は、
確固とした言葉にはならぬ何らかの保証を彼に求めて居る自分に気づいていた。
猫目洞で出遭った男が滴らせていた不気味な陶酔は、教祖からは読み取れなかった。
小柄な身体を包んで居るのは、見る者の眼を灼く、太陽の如く眩い熱情だった。

「其れは──その通りでしょう。
クトウルの版図、貴女が生まれた処では、人を慈しむ神に篤い祈りが捧げられる事はめったに無い。祠に安置されて信仰と供物を集めるのは、慰撫無ければたちどころに祟りと災厄をもたらす妬心深き神。皆が怖れる其の祭礼を目にし、語られる伝説に接する機会は多かった筈です。
彼の地では、クトウルは良く知られた神だ。戦に破れて後、この国の暗がりで粗製濫造された贋神とは一線を画す波間の神、彼が大いなる怒りの御業を示したのは、僅か五十年前の事です。幼い貴女の周りで声を潜めて語る人々の心は、未だ生々しい恐怖と畏敬に満たされていたに違いない」
「五十年前?」
「そうです。今となっては覚えている者もあまりないでしょうが」
黒衣の男は周囲を眺め回した。
「此の前の事件は、大神が元々崇められていた太平洋上の島、パラオで起きました。
後に南洋庁が置かれることになった彼の島々は当時、日本でさえ無かった。
犠牲となったのは、島を支配していた独逸人達です。実に十数人が、不可解な最期を遂げましてね。衆人環視の中で目に付く傷も無いまま次々倒れました。海底の神の見えざる触腕が巻き付いたのだと、島の人々は噂したそうですよ」
「その噂は聞いております。彼等は大変な過ちを冒したのだとか」
男は、頬に血を上らせて自分を凝視めている教祖を見返した。
「そう、まさに大罪でした。神域を冒涜したのですよ。
クトウルに帰依するものたちが神聖視する島を蹂躙し、其処に葬られていた信徒達の骨を持ち出して、勝手に処理してしまった。誰もが驚くような方法でね」
教祖の肩が僅かに動く。
「最初に死んだ男は、或る朝の会議の席で急に口が利けなくなりました。周囲が何事かと訝しんでいる間に息を詰まらせてその場で昏倒し、程なくして絶息した。駆け付けた医師によって死因は窒息と確認された──それまで普通に過ごしていたのに突然口が利けなくなり、やがて意識を保ったまま窒息死する。奇禍に襲われた人々は呆気なく死んでいった。神の復讐で奪われた人命は十八にも上りました。
貴女が祀っている神は──そういう神なのですね。
クトウル信仰の血生臭い過去を全て知っていながら、貴女は巫女を引き受けたのですか、アキコ陛下」
陰陽師は周到に陥穽を仕掛けているのは、木場も気づいていた。そんな馬鹿な、という言葉だけは発してはならぬもの。独逸人達を襲った死を否定すれば神をも否定することになり、死を諾えば、神の残虐さを受け入れ讃える事になりかねない。
彼は、巫女の仮面を剥がそうとしているのだ。ゆっくりと。

ふ、とそれまで教祖に向けていた強い視線を外し、中禅寺は背後の木場達に静かに身体を向けた。
「そういえば、まだ紹介をしていなかったね。
ご自分では捨てた名だと仰っているが──旦那、この人はパラオ諸島の
ペリリュー一帯を治めていたカヤンベサウ家最後の後継者──アキコ王女だ。
否、女王だな」

──「海神の巫女」 作・狛犬


アキコ


 ぐらぐらと縺れるように揺れ動く紅い光と黒い影の中心にあって、
只一粒の真珠だけが揺るがずに涼やかな光を放っている。

「旦那も知ってのとおり──ペリリューは先の大戦で跡形も残らぬ程の攻撃を受けた。
率先して戦闘に加わったカヤンベサウの一族も多くの島民も亡くなった」
 滑らかな木彫りの像のように、教祖は表情を変えない。
「生き残ったのは、王の親友の榎木津子爵のはからいで当時日本本土で教育を受けていたアキコさんただ一人だった。しかし日本に居て難を逃れたアキコさんの身に、更なる不幸が襲う。彼女を養育していた西国の名門・三ツ矢家の当主、奥方、前当主と次男が東京の屋敷で空襲にあって亡くなってしまったのだ。山口の三ツ矢の実家に疎開していたアキコさんは一瞬にして全ての身寄りを失ってしまった。
いや、まだ一人──三ツ矢家次期当主、南洋に出撃していた長男が居た」
 中禅寺はふっと声の調子を和らげる。
「敗戦後の混乱の中で、榎木津子爵は必死で親友の娘の行方を探していました」
 榎木津子爵の名に、一瞬教祖の視線が揺れる。
そこだけが彼女の知らぬ事だったからだろう。
「しかし、一人山口で日本の兄の帰りを待っていたアキコさんは一通の電報を受け取った後、屋敷から姿を消していた」
「電報」
 義兄の──戦死の知らせか。
地上で唯一の身寄りの。

「八年。八年の間、貴女の行方は杳として知れなかった。何が貴女に起ったのです?
まさか故国で過去信じられていた旧い海の神を今こんな形で広めようとするなどと」
アンガウル燐鉱事件に関わった「コップ吹き」教団──
中禅寺の禍々しい話を聞いたのがもう何年も前の事のように木場には思える。
あれはたかだか半日前、今日の午前中の事ではないか。
今日──?今は何時なのだろう?今はまだ今日なのだろうか?

海の彼方の旧い異形の神を現代の東京に復活させた年若い教祖は、静かな声で語る。
「貴方は多くの事を御存知なのですね」
「知り合いに失せもの探しの得意な青年がおりましてね」
 益田だ。中禅寺は座敷を去る際に事細かに彼に指示を出していた。
榎木津家に問い合わせればかなりの事は知れたのだろう。
それにしてもたった半日で、よくそこまで辿り着いたものだ、と木場は感心する。
「けれど──貴方はそれよりもっと多くの事を、御存知ないのです」
それまでの張り詰めた声音が、穏やかに変わる。
「私は戦争で全てを失いました。祖国も家族も、慈しんでくれた養家の人々も。
そして私は、心の底から信じていた神までも失いました。
学校で教えられ、家でも教えられ、周囲の皆が崇めていた現人神、
いつか神風が悪鬼共を吹き散らし、神国ニッポンは勝利に輝く、
そう教わった神は──偽りの神でした」
 信じて──いたのか。信じていたのだろう。
戦前戦中、日本人全てが日本を神国と信じていた、というのは正確ではない。
信じていなかったというより本当の所、突き詰めて考えた事などない、と言うべきだろうか。取り立てて抵抗し、事を荒立てるような事を多くの人は望まなかっただけだ。
木場自身、朝晩御真影を拝する事と、飯のまん中に箸を突き立てないようにする事との間に特別な違いはなかった。言わば習慣に近い。だからそんな事は本当は必要がない事だったのだ、と言われても別にパニックに陥るような事はない。
木場の戦友達も神様に命を捧げたつもりなどなかっただろう。
しかし、軍閥の名門で厳格な教育を受けた純粋培養の清廉な少女は
──それこそ世界が崩壊したような衝撃を受けたのだ。

「三ツ矢の家を出て直後の事はよく憶えていないのです。
何も考えられないままに海の見える土地を当ても無くあちらこちらと彷徨っていたのだと思います。
私と同じ様に大切な人や土地をなくした大勢の方々が親切にして下さいました。
そうやって一年近くも彷徨った後に──私に天啓が訪れたのです」
 上向いた娘の若々しい面が、光を受け金色に輝いた。
胸の前で固く組まれていた腕までも、無意識のうちに大きく開かれる。
「皆さんは間違っていたのです。皆さんが祀るべき神は万世一系の現人神などではなかったのです。
神風を起こす力のある真の神は──クトゥルの神、我が祖国の民の奉じる太古の海の神だったのです」
 声が再び、聞く者を惹き付ける熱を帯びる。
「それに気付いた私は、皆にその事をお知らせせねばならないと思いました。
どれほど苛烈で荒々しい神であろうと、真の神の力は揺るぎなく、
その恵みもまた底知れぬほど大きいのです。
ならばその神意にかなう祈りの技を全ての人に分ち与え、楽園に導く事こそが私の務め」
 影のような男は、じっと光り輝く教祖を見つめている。

「旦那、どうやらこのひとは──今回の事件に関しての責任はないようだ」
「事件って」
 事件。そうだ、木場はこの異様な場所に『事件』の手がかりを求めて来たのだ。
しかし、この集会自体が既に相当な事件のように見えるのだが。
これだけの力を持つ教祖に責任がないとは一体どういう事なのだ。

「旦那は例の溺死事件と教団の関係が知りたいのでしょう」
 そのとおりだ。木場は殺人課の刑事なのである。
「それなら事情を聞くのはこの人からではない。
──今ぴったりの方を御紹介しますよ」
黒衣の男はぐるりと身体の向きを変えた。

──「アキコ」 設定・やまい 作・ナルシア


石地元少佐


 壇上に固まった十名程の教団員達は、カーキ色のつなぎを着たたった一人の探偵に牽制され、身動きが取れずにひしめいていた。ほとんどの者は頭を覆った頭巾を撥ね除けてしまって、日焼けした顔面に汗が光っている。
「どれだい」
 中禅寺が一団に睨みを効かせている探偵に問いかける。
榎木津は一塊になっている男達に大股に近付くと、無言で屈強な男達の肩を押し分け、
人垣の陰に居た者の袖を掴んで一息に引きずり出した。
細く見える腕で、思いがけない程の力である。
厨子のような箱を抱えた中年男性が背中を曲げて転がり出る。
周囲の男達が慌てて支えの手を差し伸べ、両手の塞がっていた男は辛うじて踏み止まる。身体を起こしてみると案外上背もある様だが、僧服のように見える裾の長い黒い服を纏い、背を屈め首を縮込めて圧迫感を努めて抑えようとしている。尤も、無理にそう努めずとも縁無し眼鏡の奥の細い目は柔和で、面長の凹凸の少ない間延びした顔はなんともおっとりと温和に見える。
「こいつ」
 榎木津が非道く素っ気無く言った。
駆け寄ろうとする教祖を中禅寺が腕で制す。
一同の面前に立たされた男は斜めにずり落ちた丸い銀縁を片手で直すと、
「偉大なるクトウルの神よ、是等の者達を許し賜え。
 哀れ無知なる彼らは自らの為す事の意味を知らないのです」
 と早口ながら穏やかな声で呟いた。
 箱を小脇に抱え直した男は尚更聖書を手にした神父のようである。
「慈悲など示す神ではないでしょう」
 立ち並ぶ人影の中から黒い和服が歩を進め、やはり黒衣の男の前に立つ。
「失礼ですが石地勘介──元少佐でいらっしゃいますね」

 その瞬間、穏やかな風貌の男の細い目が丸い硝子の奥で
ふうっと青く閃いた──ように木場には思えた。


瞬きする程の間に、男──石地は元の平静な表情を取り戻していた。
「私の事を?」
「弐ノ宮博士から伺いました」
「弐ノ宮──」
「御存知ですね」
 和服の男も静かに話す。
石地の眼鏡がひら、と上向いた。
「弐ノ宮、ああ、ああ!彼か、いや弐ノ宮君か、
そうそう、懐かしいですね。彼は元気ですか?」
「御息災です。尤も彼に会ったのは僕ではなくて使いの者ですが」
 改めて二人の男の視線が合う。
「貴方は?」
「僕は中禅寺と言います。一応今の貴方と御同業です」
「と言うと」
「宮司を」
「ほう」
 海神の司祭はにこやかに笑む。
「それ以外にも副業をいろいろと」
 一瞬、沈黙が生まれる。
「弐ノ宮博士は──」
 黒衣の宮司は朗らかに続ける。
「とても気さくで気配りの効く方だそうですね。
僕は弐ノ宮博士と懇意だった壱ノ瀬博士と彼の論文を介して知り合いになったので、彼を通して紹介して貰ったのですが、使いの者は大変歓待して頂いてそれは興味深い話を沢山拝聴させて頂いた様です」
「本当に良い方でした。それで私の事を」
「はい。なにもかも、伺いました。弐ノ宮博士は貴方に大変感謝しておいででしたよ、
コロール撤収の際手を尽して下さった石地さんの御恩は忘れた事がない、と」
 聞き覚えのある単語に、意味不明の挨拶のようなやりとりをぼんやり聞いていた木場の記憶が連動した。
「コロール撤収って、じゃあそいつは」
「そうだよ、旦那。紹介しよう、こちらは昭和十八年パラオ熱帯研究所が海軍所轄になって以来現地の調査・監督を担当した石地勘介博士、当時は海軍付き少佐待遇だ。
こう見えてもあんた達の言い方で言えば──この教団を巡る犯罪の真の黒幕だよ」
 縁無し眼鏡の奥が、今度こそ青い炎を吹いた。
──「石地元少佐」 設定・やまい 作・ナルシア



2004年7月初出・2005年1月編集



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