彩 の 呪  


「君は以前──」

「──この世で一番短い呪(しゅ)は“名前”だ、と言ってなかったか。」
僕がかい。憶えはないが、その通りだよ。意味を与える言葉としては、名詞が
最も情報量が多い。名を与えられて初めてモノはそのモノとして認識され
機能すると言っても良い。」
 床の間の前に座った部屋の主は、本に目を落としたまま私の言葉に答える。
「人の名前はどうだい。」
「理想的じゃないか。その短い一言が全世界を包括する存在に
置き換えられるんだから。」
 言葉を探して、私は暫く逡巡する。
「その、名前が呪として作用して──ある個人の運命を決定付ける──なんて
ことは、起り得るんだろうか。」
 漸く友人は頁を捲る手を止め、私の方を見た。
「なんだ君、名前を変えたいのかい。判った、特別に知人のよしみで少しは
名付け料を勉強してやろう。」
「いやだ。君になんぞ名を付けられたら、どんな非道い名にされるか分ったもんじゃ
ない。第一、なんで僕が名前を変えなきゃならないんだ。」
「だってそうじゃないか。本は売れない、仕事は来ない、来てもちっともはかどらない。
内所不如意で細君は働きに出、愛想を尽かされるのは時間の問題。
知り合いのところに無心に行っても一方的に罵倒されるばっかりで、これはもう首を
括るしかないやもしれぬ、そこまで思いつめるのも、あるいは名前に障りがある──」
「ちょっと待てっ、黙って聞いて居ればなんで僕が首を括るんだ。
そ、それに一体いつ、僕が借金しに来たっ。」
 この男が言うと、本当に自分がその通りに思い詰めそうで怖い。
“罵倒する知り合い”は、済ましてまた頁を繰り始めた。
「括らずに済むなら良かったじゃないか。だいたい君の名前はいい加減だが
そこまで悪い名ではないよ。変える事はない。」
「だから、変えないって。僕が聞いているのは、」

 ──ある人が恣意的に与えた名前によって、
 その名を与えられた人の一生を決定付ける事は可能なのか。──

「なるほど。それが出来たらそれは確かに最強の呪だな。
しかし名前が呪ととして機能するのはそのモノをそのモノとして周囲が共通に認識
可能な範囲でのことだ。固定された地域での特定期間に限ってならあり得るが、
一生なんて長丁場になるとどうかなあ。与えられた名に無意識に自分を合わせようと
する人はもちろん世の中にはいくらでもいるけれど、君の言うのはそんな事じゃあ
ないのだろう。」
「そんな事ならわざわざ君に尋ねたりするものか。そうだな…どういうふうに言えば
いいのか──」
 私にはどうもうまく説明することが出来ない。
 友人は慰めるように気楽な調子で言った。
「何だか知らないが、まあ、あまり君が気にする事じゃないだろう。だいたいその人の
一生が、本当にその名前によって決定されていたかどうかだなんて、棺桶の蓋が
閉ってみなけりゃ分らないことじゃあないか。」

「蓋はもう閉っている。」

 紙を捲る音が止まった。

 どうやら私は理を立てて説明することは下手だが、感情はそのまま言葉や挙動に
顕われてしまうらしい。
もう、遠回しに言う事は諦めたほうがいいのだろう。

「聞いてくれ。僕は気が付いた事がある──」

 今更。今更私は、何を言い出すのだろう。
こんな事を望む者など、この世に居はしないというのに。
いや。この世の者では無い者達ですら、望みはしないのに。

 友人は影のように動かない。
 聞きたくはないのだろう。
 けれど、私は語らずにはいられない。

 私の心の奥深く、まるでさざめく流れのように、
夜となく昼となく常に闇を染める四つの色、

 その美しい名前と、

 「彩の呪」の事を。



1998年12月



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記 v0.36