中伊豆指南 ― 宴の会場 ― (2)  


 ああ、私に御用ですか?はい、こんにちわ。
さっきの電車に乗って来られた方ですね。なんでしょうか。
道を?
どうぞ、私でわかる事なら。
  びっくりされたでしょう、あの窓。私も仕事でよくこの電車に乗るんですが、最
初はあっけにとられましたよ。急行ならもっと立派な車両なんでしょうが、乗った
事はありません。まあ、終点の修善寺まで各停で行っても30分くらいですし。
 あの…。ゴルフにこられたんですか?違いますよね、失礼ですがゴルフやセミナ
ーにいらしたようには見えない。でも…その道でしたら上はゴルフ場か、伊豆スカ
イラインにつながる有料道路ぐらいしか…、
お知り合いのお宅を訪ねるんでしたら、車で迎えに来てくれているはずですよね、
歩いて登るのは大変ですから。

何かあるんですか?
何もない。はあ。

  小説の舞台の土地を見にこられた。ああ、なるほど、解りました。
中伊豆は文学散歩の宝庫ですからね。
でも、舞台になった宿とかお寺とかを訪れるならともかく、山道を何時間も登って、
はいそん?ああ、廃村。そりゃ、およしになったほうがいい。

 伊豆の山道は昼間見てふつうでも、日が暮れるととんでもない未開の地になって
しまうんですから。以前、仕事仲間と山の上にあるちょっと高級なホテルに食事に
行こうとしたんですよ。えらい目にあいました。
車で山側にはいると、街灯はない、標識はない、森は迫る、簡易鋪装の道が乱れた
砂利道になってくる、あげく急な曲がり道に気付かず薮につっこみそうになりました。
どうなったかって?おかげさまで無事着きました。迷ったわけじゃないんです、そ
の道で正しかったんですよ。昼は気になりませんが、実はそういう所なんです。灯
に包まれたお城のように美しい建物を目にしたときは、それこそ妖異に誑かされた
思いがしましたよ。
はあ、その夜道こそ歩いてみたい?困った方ですねえ。

 それより、その小説の登場人物たちが、このかいわいの温泉に入ったかも知れな
い、なんて想像するほうが楽しいと思いませんか。
 宿は?まだ?それじゃちょうどいい。

 すぐむこうには奈古谷温泉もありますが、宿が一軒ですから…
韮山も温泉街というほどでもないし。

  二駅下って伊豆長岡温泉はいかがですか。
長岡・古奈二つの温泉を持つ、中伊豆では一番の歓楽街でにぎやかですよ。
  以前町なかの商店の硝子戸超しに、神社に奉納するような煤けた板絵を見かけた
ことがあって、それがなぜか…源頼政の鵺退治の図なんです。
なんで京都の御所での鵺退治がこんなところに、とその時は思ったんですが。ゆか
りの地なんだそうですね、頼政の。奥さんのあやめ御前の出身地。
それでゆかりと言えるかどうか知りませんが、ちゃんとヌエ払いのお祭りも作った
そうですよ。あやめ御前の方のお祭りは伊豆長岡最大のイベントです。

  歓楽街はおいやですか。では格調高く修善寺では。
漱石がいわゆる「修善寺の大患」で療養していたころは、鉄道も大仁までしか行っ
てなくて、長いあいだ修善寺までは馬車が通っていたそうですが。
「修禅寺物語」の舞台となった修禅寺など見どころも多いですし、町並みも落ち着
いている。…観光客の多い所は嫌なんですか?うーん。

  大仁なんかふつうの町で、のどかな川と山があって私は好きなんですが…
でもあなた、一人で泊めてもらえるかな。

  ええ、都会や賑やかな観光地では問題ないんでしょうが、こんないなかの宿に若
いひとがふらっと来ても、なかなか泊めてもらえないんですよ。よく旅行雑誌に
「ひとりで泊まれる宿」なんて特集が載っているのは、つまり普通は泊まれないから
なんです。旅行業者を通して予約しておくとか、目的が一目瞭然だとか、それなら
…ええ、目的。一目で釣客とわかるとか。
 釣りはね、そこを西に行くと狩野川と言う有名な川があって。竿かついで駅で入
漁許可証を買って、それから川に入るんです。おもしろいでしょ。駅で見かけませ
んでしたか、貼り紙。気が付かなかった?それともこの駅にはなかったかな?
釣れるのは鮎です、。日本一と言う人もいますよ、宿で出るでしょうから食べて
いかれるといい。

  あ、そうか宿がまだ。
その小説にはどこか温泉が出ていませんでしたか?
蓮台寺温泉。下田ですね。それはいい。ここからは離れていますけど。
蓮台寺温泉は静かな落ち着いた感じの温泉ですし、北西に駿河富士、東南に下田富士
下田は、きれいな海に伊豆石や海鼠壁の古い建物や、開港以来の名所旧跡がた
くさんあって、きっと気にいりますよ。それから海中水族館が地続きのあかね島に…
なんでしょう?ええ、ありますよ、下田の赤根島。
そういえば三島由起夫の短編の舞台にありましたね、字は替えてありましたけど。
そうです、くさかんむりに西の茜。お読みになって…いませんか?
「硝子のように澄んだ恐ろしい瞳の」若主人と下僕の若者のお話ですが。
ええと、題名なんだったかなあ。

  それじゃあ、修善寺まで行ってバス天城越えをして、河津から伊豆急行に乗り
ますか?ますます文学散歩ですね。一旦三島まで戻って熱海からまっすぐ電車で下
田に向かうのじゃつまらないでしょう。
蓮台寺で宿がとれなくても、下田なら大丈夫でしょうし。

  いいえ、小さい宿だと独り客は効率が悪いとか、そんなんじゃないんです。効率
が悪いのだったら宿泊賃を割高にするとかね、むこうも商売ですから。それに釣り
客とか私のように仕事で来ている者とかは一人でも断わられませんし。
…仕事で来ているように見えない。恐れ入ります。仕事ですよ。伊豆は水も空気も
清浄なんで、工場の立地に適しているんです。あちらの、丹那トンネル上の山では、
地ビール造ってるそうですよ。

…誤摩化されませんでしたか。はい。だから、こんなところへやってくる、目的の
わからない人は泊めたくないんでしょう。宿も厄介事は嫌ですから。
別にあなたを見て逃亡犯だとか、そんなことは思わないでしょうが、けっこういま
すから。ここに来る目的が
…死ぬ事、という人が。

あなたのここにいらした目的は。
小説を読んで。はい、それは最初にうかがいました。
けれど。
ここを訪ねたいと思ったのは、本当にあなた御自身の意志でしたか?
その小説を読んで、「行かなければならない気が」したのではないのですか?

  もう、ここはいいでしょう、下田へお行きなさい。
何を探していらっしゃるんですか?ああ、富士山。南に行く前にね。
富士山はこんな近くでもなかなかね、裾は霞に覆われて頭は雲に包まれて、見えな
い事も多いんです。冬晴れの風の強い日だと東京でも、それこそ中野の坂の上から
でも綺麗にみえるんですけどね。
  宣伝用の写真に「富士に桜」を撮りたいと思った同僚が、春先に東京から来て一
週間ねばったんですが、その間一度も見えませんでした。その後伊豆に来たらくっ
きりとした富士山に迎えられて、悔しがってましたけど。
私の仕事?何だとお思いです。

郷土史家?なんでまたそんな事を思い付かれたんです?
いや、あやまらなくてもいいんですが。
社員章お見せしましょうか。可愛らしいでしょう、ほら。
六角形の星。別にケチャップ会社の社員じゃありませんよ。


私はね。薬屋です。


  どこを見ていらっしゃるんです。
そんな下の方をきょろきょろ見ていても、富士山は見えませんよ。
周囲を取り巻く平凡な山々、そんな中には居りはしません。
もっと上、中空に蒼いのは、あれは空ではないのです。
頂きに白いのは、あれは雲ではないのです。
あなたは最初から見ていたのに、全然見えてはいなかったのです。
思いもよらぬ巨きなものは、あなたの理解を越えていたのです。
その足元に寄るものは、高く仰ぎ見るべきものに永久に気付かぬままでいるのです。
お探しのものは、あそこに。

美しいでしょう。

目を放してはなりません。燦然と輝く霊峰は、常に拝せるとは限りません。
仰ぎ見て、仰ぎ見て、けして目をそらしてはなりません。

ああ、好い風が吹いてきました。とても良い香りがします。
心が洗われるような、清清しい気持ちがします。

お山はますます貴く、美しく、
あまりにも眩しくて、あなたはもう目を開いてはいられない。
ああ、眩しい、目蓋を閉じましょう、
目蓋を閉じても輝かしい光は瞳の奥に染入ってきます。
固く固く目を瞑って。

好い風です。ここはなんという心地よい場所でしょう。

あなたの暮らしていた街の雑踏や、忙しい日常や、煩わしい周囲の人々…
隣人や、同僚や、友人や、家族…。
なにもかも洗い流して、新しい生活を始めようとは思いませんか。
新しい仲間、新しい友人、新しい家族。
ほら、向こうからぞくぞくとやって来るでしょう。
心浮き立つような音楽も聞こえてきました。
これから宴が始まるのです。
ひとたび宴は果てるとも、時をかえ場所をかえ人をかえ、
宴はいくたびも催されるものなのです。

ほら、本当に好い気持ちでしょう。
新たな宴にようこそ。

あなたは幸せになれるのです。

(了)
                     


1998年10月



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記 v0.36